京都大学 大学案内 2024
4/88

1951年、富山県に生まれる。専門は医学、免疫学。京都大学医学部卒業。医学博士。京都大学大学院医学研究科長・医学部長、京都大学理事・副学長、プロボストなどを歴任。本庶佑特別教授との共同研究は、新しいがん免疫療法として結実し、本庶特別教授の2018年ノーベル賞受賞にも繋がった。2KYOTO UNIVERSITY GUIDE BOOK 2024Nagahiro Minatoとはいえ、入学した年は大学紛争の真っ只中。昨今のコロナ禍よりもひどい状態で、授業は開講されず、空いた時間を埋めるように読書をしました。大きな出会いは、F・M・バーネットの『Cellular Immunology』。現代免疫学の理論を確立し、ノーベル生理学・医学賞を受賞した名著です。夢中になりましたが、わからない用語があると、とたんに理解できなくなる。一人で読んでいては埒があかないと、免疫学の研究室を訪ねました。 研究室のメンバーは3回生の私をこころよく迎え入れてくれました。「実験がしたい」という直談判にも二つ返事で了承し、好きにさせてくれた。実験というものは、失敗・成功にかかわらず、かならずなにかが起こる。その現象を見て、考える。このプロセスに、「これまでにのめり込んだなかで、実験がいちばんおもしろい」と魅了されました。のちの研究テーマである「がん免疫」に出会ったのも『Cellular Immunology』でした。最終章、期待に胸を膨らませてページをめくると、たったの数ページで終わってしまった。「〈がん免疫〉というものを信じているが、残念ながらわかっていることはほとんどない」と。未知への探究心がふつふつと湧いてきました。ですから、私は大学院に進んでいません。さらに就労条 高校生の私にとって、大学という場所は中になにが入っているのかわからない、玉手箱のように見えました。インターネットが普及した現代とは違い、当時の地方の高校生がふれられる大学の情報は限られたもの。京都大学医学部を選んだのも、化石好きが高じて生命の起源を学べる場所を探した結果、高校の教師から「生命なら医学部だ」と。 高校時代は数学少年でもありました。一癖ある数学の問題があると、授業そっちのけで数式と向きあった。好きなことを楽しみながら追究し、どんどんのめり込む。私の選択は、そうした反応の連続です。大学卒業後のキャリアなど、考えてもみなかった。とにかく胸にあったのは、「新しいことが待っているに違いない」という大きな期待でした。 転機は5回生。入り浸っていた研究室の教員の協力で、学部生ながら英語論文を執筆しました。著名な学術誌に掲載されると、「うちで研究しないか」とアルバートアインシュタイン医科大学から連絡があった。師匠と仰ぐことになるバリー・R・ブルーム博士からでした。卒業まで待ってもらいはしましたが、即断して渡米。がんと免疫に関する研究をはじめたのです。件すら聞かずに海を渡りましたから、リスキーな選択だともいえます。でも、私にとっては自然のなりゆき。好きなことに一所懸命に取り組んでいたら、道ができた。リスクをとらず、着実に前進するのも一つですが、そうすると成功してもあまり驚きはない。それなら、自分の内なる声に従い選択したい。アメリカで3年を過ごしたあとも同じです。ブルーム博士の勧めでお会いした石坂公成先生の一言で、日本に戻り、内科医としてはじめて患者を診ることに決めた。当時の私には、もっとも先の読めない選択でした。 学生時代の臨床研修先は呼吸器内科。肺がんは当時、きわめて死亡率の高い疾患。一人も助けられない、厳しい現実に打ちのめされました。それ以来、〈謎解き〉のサイエンスに没頭してきましたが、医師としてふたたび、がんの患者と向きあうなかで、これまで挑戦してきた私のサイエンスの意義が明確になった。〈患者がいる・腫瘍がある〉という事実にどう対応するのか。この視点こそが私のサイエンスの根拠だと。12年の臨床経験のなかで、「治したい」という医師の思いに応えるには、サイエンスが追いついていないことも痛感しました。患者を知る私にこそできるサイエンスがあるはずだと、基礎研究の道に戻ることを決めたのです。当時、臨床から基礎研究に戻る例はめったになかった。だけど、私にとっては、これも自然のなりゆきでした。それから京都大学で20年、研究を続けました。最終的には、のちにノーベル賞を受賞した本庶佑先生と組んだ研究が実を結び、がんの新たな療法を確立しました。私たちのマウスでの実験は、米国でヒトに応用され、メラノーマ患者の4〜5割、肺がん患者の2割を治癒することに成功しました。肺がんが治るなんて、学生時代にはありえなかったこと。報せを聞いたときは、ほんとうにうれしかったです。 頭から離れない一言があります。米国のがんに関するシンポジウムで、ある研究者に観客が問うたのです。「すばらしい研究です。ところで、一人でも治療に成功したのですか?」。がんの研究はたんなる〈研究〉ではだめだ。そう突きつけられたのです。でも、いまなら胸を張り、「はい、成功しました」と答えられる。あのときの観客の方たちにも届く仕事ができたことは、私の誇りです。ターニングポイントに立つたびに、先の読めない道ばかり選んできました。たしかに、まっすぐにのびる見晴らしのよい道を歩くのは気持ちいい。だけど、私は曲がり角が現れたときにこそ、ワクワクする。どうせ先は見えないのだから、みずからの声に従い、行きたい道をゆく。型通りに進む人生はおもしろくないですからね。新たな環境にさらされ、未知の自分と出会う私にこそできるサイエンスを見いだす想像できない道を選び続けた湊 長博 京都大学総長

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る