東北大学広報誌 まなびの杜 No.82
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豊田 隆謙(とよた たかよし)1936年生まれ現職/東北大学名誉教授専門/内科学まなびの杜 82号|05 黒川利雄先生は東北大学第一〇代学長(一九五七年から一九六三年まで)でした(写真1)。東北大学(旧帝国大学)医学部を一九二二年に卒業、一九四一年に内科学第三講座教授になられました。内科医として尊敬され、名医といわれた先生です。一九八八年に他界されるまで、生涯現役でした。 二〇一七年に一〇五歳で亡くなられた日野原重明先生の生前の言葉です。「黒川利雄先生は臨床医学を学問的に高め、その恩恵を社会一般人に普及させるという実践的、行政的手腕を持たれました。研究と教育と臨床の三方面において教え、それらを包括した医人だと思います」。 黒川利雄先生は学長としての行政官の顔と臨床内科医としての医学研究者の顔がうかがえます。師を大切にし、多くの人から学ばれたこと 「山上に山在り、山また山」は、黒川利雄先生の言葉です。これは先生がご卒業になられた北海中学校長浅羽靖先生からいただいた葉書に書かれた言葉で、生涯大事にされておられました。あの偉大な先生ですら、未解決の問題が山積していることを生涯自覚されていたのです。 旧制第二高等学校時代には英語とドイツ語がとてもよくできました。このことは後日ドイツやオーストリアに留学されたとき、また戦後、米国から医学を学ぶときにとても役立ちました。語学は心と知識の窓だったのです。臨床研究 現在の医学研究は、ビッグデータをコンピューターサイエンスで分析し、がん疾患や糖尿病などの生活習慣病の遺伝子(ゲノム)解析がすすめられています。また長寿社会を迎え、年々高齢者が増え、人間の幸せをどのように実現すればよいかを模索している時代です。この研究のスタートともいえる仕事を黒川利雄先生がなさっていたことは、誇りに思っていいことです。 黒川利雄先生の医学研究を振り返ると、ちょうど一九二一年にインスリンが発見され、インスリンが製剤化されたのが一九二二年ですから、インスリン製剤をすぐ入手できたことに驚きます。しかも、医学博士取得のための論文を、一九二五年にドイツ語で書かれていました(学位論文:糖質代謝の基礎的研究ことに血中注入後の葡萄糖の運命)。当時東北大学にはインスリンを発見したと言われた熊谷岱蔵先生がおられたこと、初代教授、山川章太郎先生が糖質代謝と脂質代謝の研究をされていたことから、インスリン製剤をいち早く入手し研究できたのだと思います。新しい概念や仮説に挑戦される研究法は、この時育まれたのです。先生の真摯な研究が今日の糖尿病研究に引き継がれ、多くの弟子が育ちました。 一九三〇年にベルリンとウィーンに留学され(写真2)、核酸の研究をされていましたが、その後ウイーンでホルツクネヒト教授のもとで消化管のレントゲン診断を学ばれて帰国されました(写真3)。一九三六年に『消化管ノ レントゲン診断』(山川章太郎教授と共著)を出版され、消化器病研究の第一人者になられました。レントゲンを浴びすぎて自分の手には毛が生えないのだと述べておられるくらいです。当時は、臨床医学にレントゲン診断を取り入れることは、最先端の臨床研究のテーマだったのです。臨床診断技術の習得を自分の目で確かめ取り入れていたことがうかがえます。その後、胃集団検診車を導入して精密検査を行い、データ管理から現地への報告まで一貫して行うという、宮城方式の胃集団検診システムが確立されたのです。黒川利雄先生のお人柄 「僕は弟子という言葉を使ったことはないんです。親鸞も弟子一人も持たず候と言っているでしょ」。しかし、その自称弟子たちに対しては、同門同学の志として思いやりと励ましの精神に満ち溢れて指導されておられました。また、医学生の教育指導にも熱心でした(写真4)。東北大学在任中には消化器病だけでなく、がん疾患、糖尿病、血液学の専門家をたくさん育てられたので、多くの名医たちは畏敬の念で黒川利雄先生の面影を偲んでおられるのです。(写真2)ウイーン留学中のご夫妻「シベリヤ鉄道でヨーロッパに行き、ウイーンの森で楽しく過ごした」思い出を語る奥様とともに。【写真提供:黒川雄二氏】(写真3)ウイーン留学中の仲間たち。右から3人目が黒川利雄先生。【写真提供:黒川雄二氏】(写真4)東北大学第三内科教授として医学生に診察技術を指導。【写真提供:黒川雄二氏】黒川 利雄(写真1)東北大学長時代の黒川先生4東北大学をつくった人々東北大学創立110周年記念企画

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