愛知県立大学 新大学誕生10周年・長久手移転20周年記念誌
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4.寄稿 ー新大学誕生・長久手移転を振り返ってー森 正夫 元学長(第10代) 今日、2020年の愛知県立大学は、外国語、日本文化、教育福祉、看護、情報科学の5学部、国際文化、人間発達学、看護学、情報科学の大学院4研究科を擁し、6センター及び6研究所から構成され、長久手・守山の両キャンパスで活動を展開する総合大学であり、愛知県立芸術大学とともに、愛知県公立大学法人を構成する。1998年4月にはじめて来学し、以後6年間、2004年3月までの長久手草創期に学長として在職した私にとって、20年後のこの発展の姿は、文字通り目を見張るばかりである。2004年4月、法人化情勢の進む複雑な難局の中で学長の任に就かれた佐々木雄太氏の類まれなご奮闘をはじめとし、2009年、本学と統合した愛知県立看護大学の方がたなど、数多くの関係者のご努力の蓄積なくしては考えられない。 ただ、1998年4月の長久手キャンパスも、とりわけ1991年以来の名古屋市瑞穂区高田町のキャンパスにおける塩澤君夫学長と教職員・学生の不断の改革が結実し、その7年間のご努力が輝きを放ち、新鮮な息吹きに溢れており、私を感動させた。以下は、長久手キャンパス開設以来6年間、立上げの折の歩みの、いくつかの特徴的側面の紹介である。Ⅰ.移転・開学―新たなる出発 2019年4月は、正確に言えば、愛知県立大学が1998年4月、ここ長久手の新キャンパスに移転してから21年目を迎えた。 敗戦直後の1947年、愛知県立女子専門学校として発足した本学は、1951年4月、名古屋市瑞穂区高田町の県立熱田中学(五中)跡に移転し、1957年、四年制の愛知県立女子大学へ改組し、1966年、男女共学の愛知県立大学となり、戦前からの文教地区である名古屋市瑞穂区民のよきご理解を得ながら着実に成長してきた。ただ、キャンパスの狭さが年々切実に感じられるようになり、1990年、前年に「愛知県立大学将来計画」(案)を作成した本学は、愛知県と二人三脚で、新たな土地への移転・拡充につながる作業を開始した。本学の教職員・学生の熱意と要望は、以後1991年、学長に就任された塩澤君夫先生を動かし、7年間の長きにわたる準備と県当局の理解を得て、遂に長久手の新キャンパスが誕生した。 新キャンパスは単なる移転ではなく、移転・開学であった。そこにはハ−ド・ソフトの両面があった。 キャンパスが10倍になり、建物が3倍になり、緑濃い広大な敷地の、明るく静かな教室で、学生は授業を落ち着いて聴き、教員は集中できる研究室を確保し、安心して学科内部と全学とで話し合いがもてる会議室・講堂がある。新しいハードの所産である。 前年、1997年、大学進学率は全国で47.3%に達して高等教育の大衆化が顕著になり、社会人特別選抜を実施する学部や昼夜開講制へのニーズが高まり、大学院入学者も急増して高等教育の高度化が進展し、社会の各方面における情報化の発展はインターネットを広範に普及させた。また、公立大学は、その12年前の1984年の34校に較べて57校に達し、実に40.4%も増えていた。第二のハードともいうべき社会環境の大きな変化が生まれていたのである。1998年の長久手キャンパスの誕生が移転・開学と呼ばれる所以は、これらハードの大きな変化に対応する新しいソフトの創造である。1991年からの7年間の歳月、瑞穂区高田町で、当時在学していた教職員がお互いに辛苦とその意見交換を重ねながら、編み出したのは、この大きな変化を感じ取り、教育の方法・中味そのものを質的に充実する体制であった。 第一は教育組織の拡充である。はじめて理工系の学部としての情報科学部を設立した。そして、文学部に日本文化、外国語学部に中国及びドイツの計三学科を新設して国内外の地域研究の体制を拡充するとともに、文学・外国語の二学部を基盤として本学初の大学院を置いた。国際的な文化摩擦・文化交流の研究と教育に従事する大学院国際文化研究科修士課程である。さらに、文学部の社会福祉・児童教育二学科を拡充し、前者に四年制の保母課程を設置した。 こうした教育組織の拡充は、もとより、情報化、国際化、福祉社会化、生涯学習社会化の進展に応えるためだが、すべての教育組織を連ねて、愛知県から日本、そして東アジア・東南アジア・欧米・ラテンアメリカに及ぶ地域と地域社会への貢献を期している点に、本学の大きな特色がある。理工系の情報科学部にも情報システム学科に加え、地域情報科学科が置かれていることに注目していただきたい。なお、その後2002年には大学院国際文化研究科に博士課程、大学院情報科学研究科修士課程が設置され、2004年には同博士課程が設置された。 1998年の長久手への移転は、ここに述べてきたように、単なる大学の設置場所の名古屋市瑞穂区高田町から愛知郡長久手町(現在は長久手市)への移転ではなく、高等教育の量・質を拡充する開学、本学にとってはいわば第二の開学であった。 現実に、翌1999年3月の卒業式の時点で、社会人の学生は大幅に増え、帰国子女、中国引き揚げ者や留学生典拠:「移転開学記念式典」における「学長挨拶」(1998年5月15日)18はじめの六年

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