愛知県立大学 新大学誕生10周年・長久手移転20周年記念誌
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日置 英鋭 学術情報部長 「県立大学勤務を命ずる」 愛知県庁に入庁して初めていただいた辞令には、このように記されていました。 しばらくすると、庶務課の人が迎えに来てくれ、私を乗せた車は南の方に走り出しました。 私は県立大学のことを何も知らなかったため、「県立大学って、どんな所だろう。一体どこに連れて行かれるのだろう」という不安な気持ちでいっぱいでした。 やがて車は幹線道路を左折し、雁道商店街の細い道を縫うように進み、突き当った先に茶色のレンガ調の建物が見えてきました。 私は、1992年に長久手に移転する前にあった、瑞穂区高田町キャンパスでの勤務を振り出しにして、都合3回、通算8年間県立大学に勤務した経験を持つ古株の職員です。初めての勤務では、主に大学移転整備の仕事に携わりました。 移転整備を進める学内の組織として将来計画会議が最高決定機関としてあり、そこでは委員の先生方がより良い大学を創ろうと、熱い気持ちで議論されておられました。 私の担当中に将来計画会議の決定事項として記憶に残っている事柄としては、・移転後は専任教員の担当持ちコマ数を4コマから5コマにすること・土曜日を休講とし、大学を週5日制とすること・文学部に属していた「一般教育(教員グループ)」を解消し、教養教育を全学で担うことが挙げられます。大学の将来に大きく関わる事柄を決定する瞬間に立ち会うこととなり、とても印象に残っています。 また、将来計画会議のもとに設置されていた委員会の中でも情報科学部設立準備委員会の議論においては専門用語が飛び交い、会議録を作成するのにとても苦労しました。 当時の会議メモを見返しますと、「OSはA社とM社の2社に絞られてきている。もはやソフトは付録ではない」「電子決済はかなり進んでいる。お金がなくても瞬時に決済ができる」「バーチャルという言葉をそろそろ使ってもよい」といったような21世紀の今の状況を見越した発言があります。これを見て、「情報科学部はこれからの未来を切り拓いていく学部である」という思いを改めて強くしました。 移転整備を進めるにあたっては、設置者である県と大学との意見調整や将来計画会議に諮る議題等の整理、文部省や自治省への事前相談などの実務を事務局と二人三脚で行っていただいた調整委員の先生が4名おられました。そして、その中心的な役割を担われた先生が、児童教育学科のT先生でした。 当時は事務室内でもたばこが吸えたおおらかな時代で、先生はいつもたばこの煙とともに事務室に入って来られ、一担当者に過ぎなかった私にも「日置君」と気さくに話しかけてくださいました。 有名なロックバンドが恩師のことを歌った「ぼくの好きな先生」という歌の出だしは「たばこを吸いな〜がら」という歌詞ですが、先生はそれを地で行かれており、またアルコールもお好きでした。 T先生との思い出といえば、1993年にT先生とフランス学科のS先生、事務局のYさんと私の4人で、熊本女子大学と北九州大学へ調査の為に出張したことが挙げられます。 用務が無事終わった帰りの新幹線。その食堂車で「これが一番うまいんだ」と勧められ、ビーフシチューをご馳走になりました。そしてその後、先生が岐阜羽島を過ぎてから車内でお酒を注文されていたので、生意気な声をかけてしまいました。 「先生、もうすぐ名古屋ですよ」 「近鉄の中で飲むから、いいんだ」 もう四半世紀ほど前の会話なのに、ついこの前のことのようによく覚えています。 翌々年、先生は急な病のため、移転後の真新しいキャンパスを見ることなく大学を去られました。主のいなくなった研究室の前の廊下を通ったときに、ひどく寂しい気持ちになったのを覚えています。 大学職員としてここまで勤めることができたのも、先生の温かなご指導の賜物であり、感謝の気持ちでいっぱいです。 2019年、私は3回目の県立大学勤務を命じられました。 移転整備に携わった私が、長久手移転20周年という記念すべき年に赴任したのも、何かのご縁だろうと感じています。 ふと、先生が今の私を見たら、何と言われるだろうかと思いました。 「日置君、まだまだだな。もうちょっと頑張れよ!」 きっと、こうおっしゃるでしょう。 源氏物語に 「九重を霞隔つる住みかにも 春と告げくる鶯の声」という歌があります。 ここ長久手キャンパスでも、春になると鶯のさえずりが聞こえます。 先生にもこの鶯の声を聞いてほしかったと思います。 千年も前から人々に愛されている源氏物語のように、愛知県立大学が幾久しく繁栄し、物語を紡ぎ織りなすことが出来るよう、古株の一職員として微力ながら尽くしていきたいと考えています。 24将来計画会議とT先生のこと

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