卒業生・教職員からの寄稿槙島 隆教 学術情報部図書情報課 職員 平成6(1994)年4月に私は愛知県職員として採用された。最初の勤務先が県立大学附属図書館である。当時は名古屋市瑞穂区の高田町にキャンパスがあり、平成10(1998)年4月の長久手への移転に向けて非常に忙しくも充実した日々を過ごした。その時の思い出を一部この場を借りて綴りたいと思う。四半世紀も前のことなので多少記憶違いも入っているかもしれないが、それはご容赦いただきたい。 図書館における移転のメインは当然図書である。作業は図書館職員全員で分担し、通常業務と平行して数年かけて行った。私が最初に携わった作業は、目録カードと現物の照合である。当時図書館にはまだ電算システムは導入されておらず、図書のタイトルや著者等のデータが記載された目録カードで蔵書を管理していた。そのカードをケースごと書庫に持っていき、一冊一冊現物と突き合わせていった。時には何時間も書庫にこもって作業を行うこともあった。 当時の附属図書館には、カウンターと閲覧室、そして事務室の入った2階建ての中央棟を挟んで東西に書庫棟があった。まだ建ってから10年足らずの新しい東書庫に比べ、西書庫は私が入ってきたころにはすでに老朽化が著しく、書架と書架の間の照明も暗かった。そのため西書庫では蛍光灯式のランタンを持ち込み、カードを持つ手元を照らしながら図書との照合を進めていったことを覚えている。まるで洞窟の中を探検しているかの感覚であったが、それも懐かしい思い出である。 その次に関わったのが図書の配架計画である。現在の蔵書を分類ごとに何冊あるか把握した上で、将来の増加分や新設学部・学科分(長久手移転時に文学部日本文化学科、外国語学部ドイツ学科、中国学科、情報科学部が新設された)として新たに購入する分も見込んでどれだけの棚が必要かを計算し、配架図を作成するのである。私は図書館の蔵書の中でも冊数が多い3類の社会科学を担当したが、将来分のための空棚をどれだけ確保するかには非常に苦労した。特に冊数の多かった360の社会や370の教育では何度も計算をやり直したし、配架図に落し込むときに棚一列分まるまる抜かしてしまうというケアレスミスもやってしまった。何度も手直ししたうえでようやく配架図案を提出したが、提出後もしばらくは本当に間違いや見落しがなかったか心配でならなかった。 平成10(1998)年1月末に高田の図書館が閉館し、図書の引っ越し作業はいよいよ最終段階へと入った。高田から長久手への移送そのものは委託業者が行うが、業者への指示は職員が行わなければならない。現在この書架の何列目の何段目の棚に入っている図書を、新しい図書館の開架(または書庫)の何番書架の何列目の何段目の棚に入れるのか、図書を詰める段ボールに貼るラベルに記入していく。それが最後の作業であった。作業そのものは単純だが、指示を間違えると行き場の分からない迷子の図書がたくさん出てきて混乱は避けられない。残された時間の少ない中、書き漏れや書き間違いのないよう細心の注意を払った。 何とか無事に全ての作業を終え、4月の移転・開学の日を迎えることができた。図書館開館初日、入館ゲートを通って次々と学生が入り、館内で図書を探す光景を見て、これまでの苦労が報われたことをひしひしと感じた。移転作業はこの他にも様々あり、私はその中のごく一部を担ったに過ぎないが、新規採用されたばかりの自分が県立大学の歴史の大きな節目に立ち会えたことは何物にも代えがたい貴重な経験であった。未熟な私を助けてくださった当時の職員の皆々様には感謝の言葉しかない。 ところで、移転したのは図書だけではない。長久手キャンパスの南門から守衛室を過ぎると、右手に「春(La Primavera)」と名付けられた記念碑と大きな楠が立っているのが見えてくる。この大楠は元々高田キャンパスの図書館の前に植わっていたもので、移転時にここへ移植されたものだ。高さは図書館の中央棟を優に超え、その堂々とした姿は図書館の、いや高田キャンパスのシンボル的存在であった。この大楠の下を通って多くの学生達が図書館へと入っていき、2階の閲覧室で図書を広げて学習や読書にいそしんでいた。読書の合間にふと顔を上げると窓越しに見える大楠の姿に、どれだけ学生達は癒されただろうか。私にとっても移転までの4年間を共に過ごした、とても思い出深い大楠である。この長久手キャンパスでもこの先ずっと学生達を見守り続けて欲しいと心から願うばかりである。25図書の引っ越し
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