糸魚川 美樹 外国語学部ヨーロッパ学科スペイン語圏専攻 教員(外国語学部スペイン学科 卒業生) 私は、1988年外国語学部スペイン学科に入学し、1993年3月に卒業、1997年10月から非常勤講師として県大にお世話になり、2007年10月に現在のポストに着任した。大学院は別の大学に進学したが、学部時代にご指導いただいた堀田英夫先生のゼミに引き続き参加させていただいていたので、県大を離れたのはほんのいっときだった気がする。 高田町キャンパス最後の年となる1997年度後期、非常勤講師として外国語学部II部(夜間主)の一般教養のスペイン語を担当させてもらった。ほとんどが社会人の学生だった。金曜日夜間の2コマを担当し9時に終わると、クラスの学生たちに誘われて瑞穂通りの中華料理店に行ったことを覚えている。学びに対して貪欲な学生が多かった。「◯◯さんは、昼間働いて親に仕送りもしている」という話も聞き、身の引き締まる思いがした。 私は高校まで岐阜県の山間部で育った。大学入学を機に瑞穂区のアパートで一人暮らしを始めた。学部生時代はバブル真っ盛りのはずだがその恩恵を受けた記憶がない。当時は珍しくなかった風呂なしのアパートに住み、お金がなくクーラーも買えず、したがって名古屋の夏は辛かった。最初の2回の夏は続けてひどい夏バテを経験し、2年で体重が10キロ落ちた。当時の高田町キャンパスにも、食堂にクーラーはあったが、教室や先生がたの研究室には基本的に設置されていなかったと記憶している。 卒業後大学院への進学を考えていた私は、4年生の夏休み前に指導教員の堀田先生にそのことを伝えた。「それでは夏休みにいっしょに勉強しましょう」と先生は言ってくださった。暑い夏休み期間中、先生はわざわざ大学に来てくださって、クーラーのない研究室で2本あったうちわの1本を私に貸してくださり扇風機を回し、私の大学院の受験勉強に付き合ってくださった。当時県大には大学院はなく、他大学の大学院を目指していた私は、いくつかの大学からスペイン語の院試問題を取り寄せそれを解き、先生にみてもらうという指導をしていただいた。 アジア経済がご専門の田中宏先生にも同時期に大学院受験の指導をしていただいている。田中先生の「研究各論」を4年次に履修したのがきっかけである。在日外国人の指紋押捺の問題でインタビューを受ける先生の姿を入学前からテレビのニュース番組等で拝見しており、先生の授業は必ず履修しようと思っていた。先生の授業は大人気で一般の人も(もぐりで)聴講していた。 私が履修した年、先生は当時人気だったテレビ朝日の「朝まで生テレビ」に出演された。番組終了の朝に授業があり、間に合えば東京から戻って授業をする、間に合わなければ休講、ということだった。まあ、間に合わないだろうと、友人何人かで番組終了まで見ていた。当時はインターネットなどなかったので、休講かどうかは大学に行かないとわからない。行ってみると休講通知は出ておらず、開始時間に先生は教室に現れ番組のエピソードをまじえながら授業をしてくださった。徹夜をした私は眠くて倒れそうだった。 田中先生の授業のレスポンスカードに大学院進学を考えていることを書いたところ、その翌週の授業後に呼び出された。「きみのレスポンスカードを読むと、どうも作文能力が低いようだから大学院の受験勉強のために志望動機について書いて持ってくるように」ということだった(作文能力の低さは今も変わっていない)。指導は先生の研究室だったり、大学の近くの「ラカン」(記憶が間違っていなければ)というおしゃれなカフェだったりした。 前述の通り卒業後も堀田英夫先生には引き続きゼミに入れてもらい、長きに渡り研究指導をしていただいた。私の県大着任後は、先生が退職されるまで大学のさまざまな業務についても先生から多くのことを教えていただいた。現在自分の研究業績の7割程度を占めている医療通訳研究も、堀田先生が立案された「医療分野ポルトガル語スペイン語講座」がきっかけである。 田中宏先生は、教育福祉学部山本かほり先生のご尽力により、傘寿を過ぎた現在も毎年1回講義のために東京から長久手キャンパスに来てくださっていて、私も可能な限り聴講させていただいている。客観的データで迫ってくる先生の授業に30年前と変わらずドキドキするし、自分の教育研究者としての未熟さを痛感する。 自宅にも教室にもクーラーのある生活を送る現在も、名古屋の厳しい夏がくると高田町キャンパスで過ごした学生時代を思い出す。 26夏の思い出
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