愛知県立大学 新大学誕生10周年・長久手移転20周年記念誌
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卒業生・教職員からの寄稿川畑 博昭 日本文化学部歴史文化学科 教員(外国語学部スペイン学科 卒業生) 鹿児島の田舎に育った僕は、1989年4月に愛知県立大学の門をくぐった。当時、名古屋市の瑞穂区高田町にあったこの大学は、隣の中学校よりも小さかったが、「地球を丸ごと」とまでは言わないまでも、「世界とつながっている」ことを実感させてくれる場所だった。それには、在籍していた外国語学部スペイン学科の面々の不揃いぶりも大きかったが、バレー部で得た全学部学科の仲間の存在も欠かせなかった。そこは、「まじめでおとなしい」との通俗的な見方を裏切る、あらゆる意味の多元的で多様性に充ちた空間だった。 1989年とは平成元年――だから当時の県大生の間で、僕らは自分たちを「元年度入学」と呼んだ。日本国内だけに通用する暦の変化に過ぎないはずが、「元年」ということばは、僕らを「ゼロ地点」に引き戻すかのような「新鮮な錯覚」を与えた。それでも、その「錯覚」には、根拠がないわけではなかったように思う。 1989年1月の共通一次試験の直前に元号が変わり、社会は瞬く間に自粛ムードに覆われた。自分には過去だと疑わなかった戦争の時代は、昭和天皇と同世代の男性が天皇の後を追って自死した報道に接して、この時代にもなお息づいていたのだと驚愕した。4月からは日本で初めての消費税制が始まる。入学後、県大学生自治会が精力的に反対署名を呼びかける姿は、この大学には「社会とつながろうとする学生」がいることを実感させてくれた。「戦後初めて」が溢れる世の中で、社会には、確かに、一つの「区切り」のような感覚があったと思う。 世界も動いていた。入学直後の「天安門事件」は、「閉ざされた国」と教わった地にも、自分たちと同じように自由や正義を欲する人びとがいる情景を見せてくれた。変動は止まらない。11月のある夜遅く、当時始めていたスペイン料理店のアルバイトから帰宅すると、多くの人が壁によじ登り壁を傷つける姿をテレビが報じていた。ベルリンの壁の崩壊である。ドイツを東と西と別々の国と習った僕は、「年に1度の壁の開放日か何かだろうか?」と思うほど、冷戦とか東西対立は「当たり前の現実」だった。 大学の授業では教養科目が強烈だった。入学後最初に受けた社会思想史の講義では、先生の言っていることが何一つ理解できない。そのことがかえって、僕には「大学らしさ」を刻印づけた。関心を持って臨んだ政治学の授業は、始まってみると受講生はたったの2人。毎週学内の喫茶店での雑談が授業となったが、そこには政治学にはとどまらない世界についての学びがあった。高校時代に選択したという安直な理由だけで受講を決めた地学は、50人ほどの教室に1人の男子学生という居心地の悪さ。体育実技は有名で、前期は毎週おんぼろの「県大バス」で移転予定地の長久手へ行きゴルフやテニス、後期は冬だというのに同じバスで県体育館へ移動し、温水プールでの水泳の授業。文系の大学とは思えないほどの「体育会系」ぶりだった。 専門の授業も1年次から出席もそこそこに、スペイン語を口にしたいがために、愛知県内にいるスペイン語圏の人を探しては出かけた。犬山のリトルワールドではメキシコやペルーの音楽家やダンサーたちと友だちになり、バレーボールのワールドカップが名古屋で開催されると、キューバの女子チームの通訳の補助に行ったり、来日し始めていた南米からの「デカセギ」の人たちと交流したりと、ひたすら実践的な学びを求めていた。2年次の1990年には、当時の秋休みと後期の開講日を無断欠席して3か月間、高校時代のアメリカ留学で得たスペインやポルトガルの友人たちを訪ねて、イベリア半島をうろちょろしていた。友人たちが連れて行ってくれたスペインの大学の授業は、イベリア半島が今も中南米やアフリカと繋がっている現実を実感させてくれた。 イベリア半島の放浪から戻ると、2年次終了前の1991年3月から南米ペルーの日本大使館に2年間勤務することが決まった。テロ組織による車両爆弾や破壊活動が日課のように起こる国で、「自分の常識は非常識」である社会を思い知った。それでも、ペルーの多くの友人たちと苦楽を共にした時間は忘れられない。1992年4月5日、当時のアルベルト・フジモリ日系大統領が軍を掌握し、一晩にして憲法を停止して、議会を解散し、裁判所を封鎖する強権措置に打って出た。国際的に強い批判を浴びたクーデタを、しかし、ペルーの圧倒的多数の人は支持したのだった。憲法などきちんと学んでいない輩とて、憲法が一晩で吹っ飛ぶ事の重大さは理解できたが、多くの人びとがそれに拍手喝采を送る現実は、僕の「当たり前」をことごとく覆していった。法学の研究を志そうと決めたきっかけが、ここにある。 「母校」はラテン語でalma mater(アルマ・マータ)、原意は「知の養分を与える母」。型破りばかりの学生生活は、小さくとも、世界とつながった県大で得た養分なしにはあり得なかったのだと、31年後のいま、強く思う。27世界とつなげてくれた母校 ―1989年度入学の県大生の回想―

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