愛知県立大学 新大学誕生10周年・長久手移転20周年記念誌
30/96

小島 伊織 小島 典子 (旧姓 増井 典子) 文学部児童教育学科 卒業生 この度の長久手移転20周年・新大学発足10周年、誠におめでとうございます。そして、愛知県立大学の卒業生代表として、記念誌への寄稿の機会をいただき、大変光栄に思っております。高田キャンパスの思い出 恵那市を出て昭和区滝子で一人暮らしをしていた私にとって、高田キャンパスは、通学途中にある名古屋市立大学に比べて、校門を見落として通り過ぎてしまうような大学でした。 とにかく敷地が狭く、グランドも縦長の作りであったため、私の入っていた野球部の練習ではなかなか苦労していました。ネットを越えてライト方向にあるテニスコートにボールが飛び込み、「危ない!3番!」などとコートの番号を叫ぶことは日常茶飯事。テニスコートをさらに飛び越えて、民家の窓を割ってしまい、謝りにいくようなこともありました。 在籍していた児童教育学科は、女子大学かと思うほど女子ばかり。入学時は40人ほどのうち、男子はたったの4名。他の大学に通う友達などからは、かなり羨ましがられましたが、中にいるとなかなか肩身が狭い思いもありました。ただ、当時はルーズソックスのアムラーが全盛期で、ガングロのギャルがテレビを賑わせているような時代でしたが、在籍している子たちは本当に感じのいい子ばかりで笑いの絶えない毎日でした。 (伊織) 瑞穂区にあるちょっと古いこじんまりしたキャンパス。それが、移転前の愛知県立大学の印象です。私が入学したのは1998年。ちょうど2年ずつ高田キャンパスと長久手キャンパスに通ったことになります。 瑞穂区は、一人暮らしをしていた私にとって、とても住みやすい町でした。近くに大学や高校がいくつもあり、周りには学生がたくさんいます。学生にやさしいお手頃な飲食店や居酒屋も多数あり、食事の面でもずいぶん助けられました。自転車でどこへでも行けるという好立地で、よく友人と自転車で栄まで遊びに行ったのも楽しい思い出です。 在籍していた児童教育学科(今は、教育発達学科)は、同じ学年の学生が40人ほどで、とてもアットホームな雰囲気でした。教室は、後ろに行くほど席が高くなっていくテレビでよく見るような講堂タイプではなく、普通の教室! 高校生の頃と変わらないような一人ずつ座る机で講義を受けていました。学生食堂はなぜか地下にあり、日の光の入らない薄暗い部屋で毎日昼ご飯を食べていました。テレビドラマに出てくるようなお洒落な大学生活とは全然違っていましたが、それはそれで楽しかったです。先生たちもフレンドリーで、一人暮らしの私は、よくおうちにお邪魔してご飯をごちそうになっていました。そんな環境だったので、ホームシックにかかることもなく、毎日楽しく大学に通えたと思います。今、思い返すと、すごく恵まれた大学生活だったんでしょうね。 (典子)長久手キャンパスの思い出 高田キャンパスは、古い中でも温かい人間関係がつくられていて、移転が近付くにつれて、住み慣れた瑞穂区や昭和区当たりの生活から離れるのにも一抹の寂しさがありました。それでも、移転先の長久手キャンパスを紹介するパンフレットの写真撮影に参加し、建物の中に入ってみると、こんな広くてきれいな大学に通えるのかと寂しさは一発で吹き飛びました。 3年生に上がる時の移転であったため、受講する講義も少なくなることも考え、実家から自家用車で大学へ通うことにしました。恵那市から長久手キャンパスまでは、1時間20分程度。時間はかかりますが、恵那市から瀬戸市へとつながる国道365号線(いわゆる中馬街道)は、信号も少なく、四季の移り変わりも楽しめる素敵な通学路でした。下宿生は、バスに乗って藤ヶ丘まで出ることが多いため、よく学科の友達に「乗せてって。」と車で送るようせがまれました。時代が時代なら、「アッシー君」だったわけですが、当時は、超就職氷河期。岐阜県の教員採用は、どん底の状態でしたが、何とか合格できて今に至ります。 野球部については、学科が増えたことや野球専用のグランドが完成したこともあって、リーグ戦における成績も向上し、民家やテニスコートにボールが飛び込むこともなくなりました。 (伊織) 住みやすい高田キャンパスでしたが、大学3年時には長久手町に移転することが決まっていたので、それに合わせて私も引っ越しました。ところが、今でこそ住みたい街の上位になる長久手市ですが、当時は本当に何もなかった!そもそも県外出身者の私にとって、「長久手?どこそれ?」の世界です。車を持っていないと買い物にも行けない、大学の周りには自然ばかりでアパートなんてない!ということで、最寄り駅の地下鉄藤ヶ丘周辺で家を探しました。でも、ここから大学までバスで約30分かかります。しかも、料金が片道500円越え…。地味に懐が痛かったことを覚えています。ただ、校舎は断然きれいになりました。敷地も広くなってよかったのですが、高田キャンパスは友だちを探すのに困らない狭さでしたが、長久手は広すぎて友達になかなか会えない。携帯電話の便利さを知ったのは、この時だったと思います。 3年生になり、丸山ゼミに入りました。私達の代は、ゼミ生が3人でした。丸山先生が「いいぞ〜、やってみろ〜。」とド~ンと構えている先生だったので、女子3人に先生も含め、和気あいあいと過ごしていました。当時の写真を見ると本当に楽しそう!ゼミの子たちとは20年たっても連絡を取り合っています。丸山先生、お世話になりました!(典子) 高田キャンパスで出会い、長久手キャンパスを卒業した私たちは、2人とも岐阜県で教員として勤めるようになり、そして結婚しました。いろいろな思い出の詰まったキャンパスと先生方をはじめ、大学関係者の皆様に、改めて感謝申し上げます。 28わたしたちの2つの県大キャンパス

元のページ  ../index.html#30

このブックを見る