卒業生・教職員からの寄稿高島 忠義 前学長(第12代) 1985年4月に県大へ赴任し、2019年3月に退職するまでの34年間で、私の役職年数は、その約半分に相当する16年にも及びます。その最初の役職が1997年度から2年間務めた学生部次長でしたが(部長は日置雅子先生)、その2年目に高田町キャンパスから現在の長久手キャンパスに移転しました。私の主要な職責は入試でしたので、次長1年目に旧キャンパスでの最後の入試を、2年目には新キャンパスでの最初の入試を担当することになりました。当時の思い出と言えば、長久手移転と同時に新設される情報科学部の入試です。新学部についてはセンター試験を利用することができないため、受験生が殺到することが予想されました。そのため、当時の名古屋市総合体育館(笠寺)を借り切って同学部の入試を実施することにしましたが、志願者の数が全く予想できなかったために果たして大ホールだけで足りるのか、大学の教室とは全く勝手の違うホールでどのように入試を実施するのかなど、あらゆる点において手探り状態での入試となりました。それでも何とか無事に同学部の入試を終了することができたのは、当時の入試課職員の寝る間も惜しんでの尽力があったからこそでした。 2005年には、2007年4月の愛知県立3大学の法人化に向けて、県庁内に「県立の大学の改革会議」とそれをサポートする大学改革室(事務組織)が設置されました。私は、副学長(学長は佐々木雄太先生)として、同会議の下で「法人の組織と運営」を扱う部会に参加しました。この部会では、県立の大学を1法人に纏めるのか又は大学毎に個別の法人を設置するのか、県立大学と県立看護大学を統合するのかどうか、法人の理事長と大学の学長を分離するのかどうか、教員の任期・評価制度を導入するのかなど、非常にセンシティブな議題が俎上に上りました。これらの難題を検討する過程で改革室と3大学との間で丁々発止の議論が行われましたが、最終的には知事の決裁によって改革会議に上申する原案が作成され、平成18年3月の改革会議において「愛知県大学改革基本計画」として承認されました。この時期、当然のこととは言え、県立大学の設置者が「愛知県」であるという現実を痛感させられました。 県立大学と県立看護大学との統合に関しては、どのような方式と手続でもって統合するのかが焦点となりました。具体的には、看護大学を県立大学に統合するかたちで文科省に「届出」を提出する方式によるのか、或いは両大学を統合した新設の県立大学として文科省の「設置認可」を受ける方式にするのかが問題になりました。最終的に後者の方式が採用されることになりましたが、設置認可の審査を受けるタイミングが最悪でした。その当時、専門学校の設置した新大学でさまざまな不祥事(例えば専門学校の授業を大学のそれとして重複開設する)が発覚したことを契機として、同省の規制が緩和から強化へと大きく揺れ戻しを始める時期だったのです。そのため、文科省に事前の相談に行く度に厳しい注文を付けられ、その部分を補正して同省に持参するとさらに別の注文を付けられるというパターンの繰り返しでした。3月末の申請締切直前には、ほぼ徹夜で提出書類を補正し、翌朝にそれを持参するという有様でした。同行していた事務職員からは「もう諦めましょう」という声さえ発せられましたが、何とか申請の締切期限に間に合わせることができました。 文科省への認可申請と並行して、県立大学と県立看護大学の統合準備委員会を立ち上げましたが、看護大学の故・川田智恵子学長をはじめとした先生方のご協力によって、新大学の始動と運営に必要な事項について建設的な協議を行うことができました。その委員会が18時過ぎからのスタートでしたので、空腹と眠気に苛まれながら議論をしていたことを思い出します。 以上のような寄稿文を執筆することで、私が新キャンパス移転から法人化、さらには新大学発足までの激動期に役職者として直接係わってきたことを改めて認識しました。しかも、私は、2012年4月から2018年3月までの6年間、こうして難産の末に誕生した法人と新県立大学の運営にも学長として直接携わることになりました。ここまで読んで頂いた方々には、「大変な仕事に係わって、さぞかしストレスが溜まったのでは」とご心配をお掛けするかも知れません。確かに大変な仕事に携わってきたことは事実ですが、自分でも不思議なほどストレスを溜め込むことはありませんでした。強い緊張感を持ちながらも、助力を頂いた教職員の皆さんと楽しく仕事ができたことが良かったのではないかと思料しています。この機会をお借りして、多大なご支援を頂いた教職員の皆さんに心から深甚の謝意を表したいと思います。 34激動の時代を振り返って
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