愛知県立大学 新大学誕生10周年・長久手移転20周年記念誌
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大塚 英二 日本文化学部長・兼国際文化研究科長 二〇〇九年に本学は県立看護大学と統合して新県立大学として開設され、その際、各学部の再編と同時に大学院の改組も行われた。改組に直接関わった者として、今後の国際文化研究科の展開のために、その歩みを少しだけ振り返ろうと思う。 国際文化研究科は、旧愛知県立大学が名古屋の高田町キャンパスから現校地に移転した翌年の一九九八年に修士課程のみ(四年後には博士課程も設置)の課程として出発した。筆者は最初から担当していたわけではなく、同僚教員の他大学への転出により、同分野科目の欠を補うべく、俄かに審査を受けることとなった。当時は文学部(現在の日本文化学部と教育福祉学部、そして外国語学部に移った旧英文学科の教員により構成されていた)と外国語学部の総勢一三〇人ほどの教員のうち、三三名だけが大学院担当となっていた。そして、一学年の学生定員は一五名であった。 その後、学生定員を二〇名に増やし(当時は入試倍率が二倍以上あって今は昔の感がある)、それに合わせて教員定数も四四名となった。それでも、教員の大半は研究科の担当ではなく、人間発達学研究科も二〇〇九年の発足であったから、多くの教員が大学院と関わっていなかった。大学院担当会議は、教授会のない水曜日に独自に行われており、現在のG506の会議室(現教育福祉学部教授会室)が充てられていた。途中から博士前期と博士後期の担当会議は一緒に行うようになったが、当初は別々に行っており、月二回の教授会と併せると、今よりもずっと会議漬けの日々だったような気がする。 その当時、国際文化研究科を構成する二学部の教員の思いは、筆者の記憶が間違っていなければ、大学院の全員担当を求めるものであった。そこで、二〇〇五年頃からそれに向けた制度改革を目指したのである。筆者はその段階で副研究科長の任にあり、新研究科開設に向けたワーキンググループの責任者を仰せつかった。 設置審に提出する書類は、最初に研究科を立ち上げた時のものと博士課程を作った時のものを参考に、グローバル化が進む社会において両学部のブリッジによる視野の広い学びとともに、各分野の専門性も十分に保証するカリキュラム構成となるよう配慮した。更に、今はブリッジであっても、やがて各学部の上に二階建てとなる研究科が作れるよう、定員自体をそれぞれに設けた二つの専攻、すなわち国際文化専攻と日本文化専攻を設置した。新大学院開設直後から研究科会議は専攻ごとに行い、各学部教授会と一体に運営してきたことは、この二階建て化を意識して導入されたものである。 しかしながら、一昨年度からは、試行的にではあるが、研究科会議は旧会議のように両学部の構成員全員で一体的になされるようになった。我々は、自覚的ではないにせよ、すでに研究科の分離を前提しなくなっているように思う。それは、両学部がディシプリン的には共通する土台を有し、学術面で大きな違和感を互いに感ずることが少ないからであろう。ただ、かつて真剣に考えられた連携・共同する二研究科構想は、現時点では頓挫したままである。 さて、全員担当化にかかわる想い出を一つ語ろう。二〇〇七年度から二年間、筆者は研究科長の職にあった。その際、最も大変だったのは新研究科担当教員の審査であった。授業科目は全員の担当が可であるとしても、論文指導の面で主たる指導を担いうる教員として適格であるか否か、すなわち設置審での基準をクリアーするものであるか否か、自前の判断が必要だったのである。そのため、研究科内に資格審査委員会を設置し、全教員に業績と教育実績等を出してもらい、一人ずつ審査し、その結果を各自にお伝えしたのである。今思えば、人様に「あなたは合です、マル合です」などと言うのは非常に失礼な話であるが、誰かがやらねばならない。皆さんに届けた封書の差出人に自分の名前を書き入れた時の重たい気分がよみがえる。 そして、今また十年ぶりに研究科長の職にある。筆者らが十年以上前に作った研究科の枠組み自体は変わっていないものの、新たなコースの設置、カリキュラムの改編、入試方法の変化など、中身としてはずいぶん様変わりした。社会のニーズに合わせた人材の育成という点でも、また多様な学的背景を有した人材を確保するという点でも、研究科は変わり続けている。 研究科の変化は、教員組織の面でも大きなものがある。それを資格審査の面でもう一つ見てみよう。研究科では、当初から、前期課程主指導の条件には二年の副指導、二年の授業経験を入れていた。これは、教授には課されない条件で、准教授のみに適用されていた。教授と准教授を明らかに差別しているように見えるのだが、もともとは准教授にも主指導を任すために考案されたものだった。旧研究科には、助教授(のちの准教授)もいたが、極めて少数で、基本的に教授が大学院学生の教育を担う構造となっていた。それを、業績と授業経験があれば、どんどん主指導になって頂きたいとの考えから、すなわち研究科内の人的資産を十分に活用したいとの思いから付けられた条件だったのである。新研究科発足の頃には、既に採用教員の多くがその時点で博士の学位を有しており、業績的には問題なかったが、副査や授業の経験を積む機会は必ずしも多いとは言えず、この条件が逆に准教授の 46新大学開設と国際文化研究科改組

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