秋田県立大学広報誌 イスナ VOL.23
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 今から50年前のことである。大学入学式の後、キャンパスを歩いていたら突然女子学生から声をかけられた。見ると民族舞踊のコスチュームを着て「一緒に踊ってみませんか?」とにこやかに微笑んでいた。私は高校時代ベンチャーズが好きで、音楽を聴きながら踊っていたので、ためらいもなく誘いに乗った。広場には、50~60人のフォークダンス部のメンバがいて、私と同じ新入生も大勢踊っていた。私は早速、フォークダンス同好会に入部した。フォークダンスと言ってもかなり本格的で、ヨーロッパを中心とした民族舞踊である。部員は100名近くいて、女子大学が数校参加していたので、男女割合が3:7ぐらいで大変うれしい理想環境であった。 ダンスは、サークル系(サークルや横一列に並んで踊る形)、カップル系(男女ペアで踊る形)に分けられる。サークル系は動きがハードで体育会系である。一方、カップル系は、男女の息が合うことが最も大事である。週2~3回練習がありダンスの基礎から表現方法までを磨いた。年に何回かパーティーがあり楽しく踊る一方、デモンストレーションと称してダンスを披露した。そのための練習は大変厳しかった。全国大会もあり、我が同好会は全日本をリードするトップクラスのレベルであった。 カップルダンスの極意は、男女がお互いに信頼し息を合わせること。女性は体重をほどよく男性に預ける。この時女性は男性を信頼している。そうさせるように男性は振る舞わなければならない。そして、女性を支える男性の右手中指は女性の背中から腰を支え、この指で次の動きをリードする。女性は勘が良いので、これでピタッとついてくる。これがうまくいった時は、実にダンスが楽しい。これを博士課程まで、9年間も楽しんだ。写真は、今から10年前、埼玉県志木市でのデモンストレーションで踊った時のものである。 私は、秋田高校時代はラグビー部に所属し、日々、ラグビーに明け暮れていました。 当時の秋田高校ラグビー部は、前年、前々年と“花園”に出場し、準決勝、準々決勝まで進出した新生強豪校でした。当時のメンバーは、新日鉄住金の進藤社長、秋田商工会議所の三浦会頭、3年生のキャプテンが菅原男鹿市長、私の代のキャプテンは小玉秋田県医師会長と、今の秋田ひいては日本を牽引している、そうそうたるメンバーが名を連ねていました。 走るのには自信があった私は、3年生になってバックスのセンター(13番)というポジションで、和歌山国体で2連覇を果たしましたが、その時に足にけがを負い、それもあって花園では控えでした。花園では、新日鉄釜石7連覇の立役者である松尾雄治氏率いる目黒高校と2回線で対戦し、結果は引き分け。ラグビーは試合が終わると「ノーサイド」、つまり敵味方の区別はなくなり、延長戦はなく抽選の結果、残念ながら負けでした。 結局、3年生の正月まで試合でしたので、花園の宿舎でも受験勉強をしていました。ラグビーをしていたからこそ、集中力を切らすことなく粘り強く勉強できたのだと思います。高校3年間のラグビー生活を通じて得たことは、ラグビーで培った体力や気力、ドライバーで300ヤード近く飛ばせた強靭な足腰、そして何より練習時間1時間で花園へ出場し受験勉強にも勝ったここぞというときの集中力です!毎号テーマに沿って、大学に携わる人の“瞬間”をお届けするコラム。今回は小林淳一学長と鎌田悟理事のお二人に、自身の「私の青春時代」を伺いました。学長小林 淳一研究・地域貢献担当理事鎌田 悟瞬間風速ラグビーに明け暮れた高校時代ダンスに打ち込んだ大学時代左が大学時代 右が高校時代06

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