鐸身に六区袈裟襷文を描く銅鐸のうち、鈕と鰭の外周のみに突線を施す突線鈕1式に位置付けられる資料である。また、小判形の鈕や、縦長の鈕孔、鈕外縁の鋸歯文、鈕内縁の重孤文、そして身の下縁より高い位置までの鰭など、近畿東部での製作が想定される大福型の特徴もともなう。出土地の詳細は不明だが、銹や付着している土の様子から、明治14(1881)年に滋賀県大岩山から出土した銅鐸のひとつである可能性が指摘されている。▶袈裟襷文銅鐸弥生時代後期伝滋賀県野州市 大岩山遺跡出土和田川左岸の台地上に所在する野原古墳群は、古墳時代後期から終末期にかけての古墳群であり、全長約40mの前方後円墳である野原古墳や、30基以上の円墳によって構成されていた。本資料は、衝角付冑を被り、小札甲を身に着けた武装男子の立像である。恐らく、権現坂遺跡の埴輪窯にて焼成されたものであろう。出土時には、いわゆる「踊る埴輪」とともに帝室博物館(現東京国立博物館)へ納められたが、後に國學院大學の所蔵となった。▶武人埴輪古墳時代後期埼玉県熊谷市 野原古墳群出土重要美術品國學院大學博物館國學院大學図書館養老川下流域に所在する姉崎二子塚古墳(千葉県指定史跡)は、古墳時代中期後半における全長約100mの前方後円墳であり、國學院大學考古學會が調査を行った。その前方部から出土した本資料は、被葬者の頭部を支えるために造られた滑石製石枕である。階段状の側面に直弧文を刻み、縁に立花状の石製品を立て並べていた。なお、このタイプの石枕は、茨城県南部から千葉県北西部に多く見られるため、「常総型」石枕と呼ばれている。▶石枕古墳時代中期千葉県市原市 姉崎二子塚古墳出土重要文化財神田祭附祭鯰曵き物現代(復元模型)祇園祭礼絵巻江戸時代賀茂御祖神社(下鴨神社)葵祭神饌現代(一部模型)女房装束現代隆起線文土器縄文時代草創期長野県須坂市石小屋洞穴出土遮光器土偶縄文時代晩期東北地方出土挙手人面土器古墳時代前期長野県長野市片山遺跡出土力士埴輪古墳時代後期猪型埴輪古墳時代後期全国各地でまつられている八幡の神は、古代から仏教と縁の深い神であった。この神は、僧侶の姿(僧形八幡神)でも描かれた。この絵は、京都の神護寺が所蔵するものと同じ形式で、右手に錫杖、左手に念珠を持ち、頭上に日輪を描いている。▶僧形八幡神像江戸時代吉田神道は、室町時代に吉田兼倶(1435~1511)によって大成された。この神道は、吉田家に伝わった神祇に関する知識に、道教・仏教・儒教などの思想を取り入れている。この行事壇は、吉田神道における祈祷のひとつである神道護摩行事を行うためのもので、中央の炉で火を焚いて行った。▶吉田神道行事壇現代(復元)京都府の賀茂御祖神社と賀茂別雷神社で、現在は5月(かつては4月)に行われる葵祭(賀茂祭)を描いた屏風。宮中から遣わされた勅使一行が、神前に天皇の言葉(宣命)を奏上し、捧げもの(幣帛)を奉るために参向する様子を描いており、幣帛の入った唐櫃を担ぐ人々や牛車などが見える。▶葵祭図屏風江戸時代鏡背面の内区外周に巡る波文帯や、求心的に配置された三神三獣の図像、そして博山炉状の文様を持つことなどから、いわゆる仿製三角縁神獣鏡に先立つ最新の舶載鏡群に位置付けられる資料である。同笵例の鋳型傷と比較した結果、三重県筒野古墳出土鏡、岐阜県長塚古墳東槨出土鏡に次いで鋳造された可能性が明らかとなった。幕末明治期の漢学者である大槻盤渓の旧蔵品であり、外箱には「西漢僊人不老鑑」の墨書が認められる。▶三角縁三神三獣鏡古墳時代前期017
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