國學院大學 入学案内 2024
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1867-19271887-19531897-19921875-19601882-19711902-19831909-1997KOKUGAKUIN UNIV. 014国学にドイツ文献学の方法を取り入れ、近代国文学研究の基礎を築いた。学長就任後、大学令による大学への昇格や、飯田町(飯田橋)から現在地となる渋谷への校地移転を果たした國學院中興の祖。國學院大學校歌の作詞者でもある。幼年期から詩歌・歌舞伎などに親しみ、國學院大學在学中は三矢重松に師事した。その後、柳田國男の高弟となって民俗学を志し、その学風は国学に民俗学の研究法を合わせて、古代から現代に至る日本人の心の伝承を捉えようとするものであった。日本法制史の大家で、研究領域は中国の法制史や政治史、社会経済史、芸能・風俗史などに及び、100冊を超える編著書を世に送り出している。法実務にも深く関わり、東京裁判の特別弁護人を務めた。日本倫理や国民道徳を講じ、國學院大學の運営実務にも携わる。東宮傅育官・皇子傅育官として上皇陛下等の御養育を担った。終戦直後の最も混迷した時期に國學院大學理事長・学長となって、その維持・発展に尽力した。アイヌ語研究の先駆者。樺太・北海道で現地調査を行い、アイヌ民族の言語・文学・民俗を体系的に研究して、昭和7年に『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』により学士院恩賜賞を受賞した。横溝正史の小説に出てくる探偵「金田一耕助」の名前のもとにもなっている。古典派経済学の方法論を用いながら新しい理論も批判的に取り入れ、理論経済学の主要テーマである「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。京都大学経済研究所の創設に尽くし、初代所長を務める。後に國學院大學教授となり、草創期の経済学部を支えた。戦後における考古学発展の基礎を築くとともに、学問成果を分かりやすく説明して一般の人々にも広めた。テレビドラマの時代考証など、教育・教養番組の充実にも寄与。代表著作『梅干と日本刀』(祥伝社)から「梅干し博士」と呼ばれ親しまれた。“國學院大學”を世に示した先人たち

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