11 たかが一か月の短期留学などと舐めてはいけない。人生を変える転機に、期間や場所の別は存在しない。大学4年の夏というこのタイミングにしか出来ない経験が、そこにある。 僕の訪れた街はブレーメン。あの「ブレーメンの音楽隊」の街だ。広場には世界遺産になっているローランド像、そして風情ある市庁舎。街行く人々の口から聞こえてくる言葉は、それこそ、最初の数日はただの呪文にしか聞こえない。時折聞こえてくるわずかに聞きとれる言葉にすがって、どうにかコミュニケーションを取らなくてはならない。「どうもありがとう(Vielen Dank)」しか言えない自分は、巨人を前にした小人のように口にする。「ああ、Deutsch sprache, schwere sprache.(ドイツ語、この難しき言葉)」。 ホームステイ先にはスペイン人とインド人、メキシコ人がいた。みんなで机を囲んで食べた夜ご飯は、それぞれのお国柄が色濃く出ている。インド人の彼女は、スパイスが入った重箱サイズの調味料入れを常に携帯していたし、スペイン人の彼は僕を「アミーゴ(友よ!)」と呼ぶ。僕が味噌汁を振る舞った晩には、みんなが本当に「おいしい!おいしい!」と口々に言う。ああ、僕は意外に英語が喋れるのかと初めて気が付いて、とてつもなく嬉しかった。 毎朝6時半に起きて、7時40分のトラム(路面電車)に乗ると、大体授業5分前に大学へ到着する。B2クラス担任のエックハルト先生は齢70も間近、いつも笑顔を絶やさない素敵な人だ。だが、授業は手厳しい。僕の頭上を次々に知らぬ言葉が飛んでいく。国際色豊かなクラスメイトは、ロシア人、韓国人、アメリカ人、ウクライナ人、メキシコ人、チェコ人などなど。一緒に来た日本人の友達はいない。ここでは僕は孤軍奮闘。しかし友達は決して僕を見捨てたりはしない。いつも優しくヘルプをしてくれるし、僕が授業に遅れたときは「大丈夫?」と心配さえしてくれる。ああ、ダンケダンケ。いつもありがとう。 休日はハンブルクからベルリンまで、いろいろな街を回った。ベルリンでは弊學哲学科所属の藤野教授と待ち合わせをして、二人でドイツ料理を堪能した(藤野先生は毎年ドイツで夏を過ごすらしい。待ち合わせの時間に「サッカーの試合を見ていて遅れた」と笑いながらやって来る先生の姿を見た時、ひとりでベルリンの駅に立ち尽くしていた僕はどれほど安心したことか!!宿泊先の宿で知り合ったドイツ人の若者たちに誘われて深夜のダンスバーに誘われ、酔っ払いながら朝の4時まで踊り明かした後、美術館と博物館を巡る予定がすっ飛んでしまったことに少しばかりの後悔を覚えながらベルリンを後にしたとき、少しだけ自然なドイツ語を話せる自身を身に着けたような気がした。 授業最終日。ウクライナ人のクラスメイトの父親の勤務先にミサイルが落ちた。最初に彼女の家族を心配したのはロシア人のクラスメイトだった。僕はそこに希望を見た。この小さな島国では決して知ることの出来ない、「人間」を学ぶ機会が、留学にはある。R.H.クラスメイト達と食事ホストファミリーwithお人形ベ ルリンで 偶然で 出来た友達たち中央広場にて先輩たちの海外留学体験記ドイツ・ブレーメンドイツ・ブレーメンドイツ・ブレーメンドイツ・ブレーメン
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