熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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(1)戦前・戦後の「無らい県運動」(2)熊本県内でのハンセン病差別事件容し、決してそこからの退所を認めないものであった。そして、入所者に対する様々な強制は温存された。 しかし、既に、この時点で、国際的には、日本も加盟した WHO(世界保健機関)の専門委員会にて、公衆の恐怖や偏見を理由としてハンセン病を特別扱いするのではなく、不必要な隔離、とりわけ施設への強制隔離の弊害が強く指摘されていた(内田 2006:207)。従って、「らい予防法」はこのような国際的な科学的知見に基づかない、合理性を欠くものであった。その意味で、ハンセン病患者を全て隔離する立法そのものが、合理的な理由のない差別であったと言える。 3.戦前・戦後の「無らい県運動」とハンセン病差別事件 法に基づいて、ハンセン病患者の隔離が強制されるようになると、1936 年に内務省衛生局によって策定された、ハンセン病患者の「二十年根絶計画」を期に、地域社会から全てのハンセン病患者を隔離する「無らい県運動」が進められた。「無らい県運動は、皇室の恩を全面に出し、ハンセン病患者への同情を説きつつ、隔離政策を正当化する世論を喚起していった」(無らい県運動研究会 2014:27)。その際に、ハンセン病療養所は、患者のための「愛の殿堂」であるかのように宣伝されたのであった。 そして、この運動は、戦後も継続され、さらに強化された。運動の担い手も、民間人にまで拡大され、社会の中で息を潜めて生活していたハンセン病患者の密告も奨励された(無らい県運動研究会 2014:44)。その結果、ハンセン病患者の家族に対する地域社会からの差別や、いわゆる「村八分」がさらに激化した。熊本県では、1950 年に、ハンセン病の父親を殺した長男がライフルで自殺する事件や、恋人から自分の兄がハンセン病であることを告げられた女性が前途を悲観して自殺をはかるという事件も発生している(無らい県運動研究会 2014:197)。こうして、ハンセン病患者が療養所に収容される段階で、ハンセン病患者とその家族とのつながりさえも断絶され、ハンセン病患者がその治癒の後に一般社会に戻る場所もなくなってしまったのである。 このように、「無らい県運動」によって、地域社会におけるハンセン病への差別・偏見が増強される中で、熊本県においても、いくつかのハンセン病差別事件が発生した。その代表的なものとして、いわゆる菊池事件と竜田寮事件とを挙げることができよう。 前者には、熊本県が、政府・厚生省の方針に極めて忠実であったが故に、1947 年に郡単位で各市町村の衛生係を集め、1940 年調査で明らかとなった未収容患者名を挙げて現況調査を命じたことが、その背景の一つとして関わっている。この調査で、村内にハンセン病

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