熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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A さんとその子どもが傷害を負う事件が起こった。この事件で、F さんは逮捕され、菊池2014: 201)。そして、菊池恵楓園内の拘置所に収容されていた F さんは、看守が避けてF さんの死刑には、ハンセン病差別が色濃く影響を与えたものと考えられている。また、F 患者であることが知れ渡ってしまった F さんが、菊池恵楓園に入所せざるをえなくなった時に、知れ渡るきっかけを作ったと考えられたAさんの自宅にダイナマイトが投げ込まれ、 恵楓園内に設置された拘置所に収容された上、懲役 10 年の有罪判決を受けた。しかし、F さんはダイナマイトの扱い方すら知らなかったと言われている(無らい県運動研究会 いたこともあって、1952 年 6 月 16 日に、その隙をついて逃走したところ、それから 20 日以上経過した同年 7 月 7 日に、刃物でメッタ刺しにされて死亡した A さんが発見されたため、F さんが A さん殺人の被疑者とされ、大規模な山狩りが行われ追い詰められた末、警官 2 名から銃撃まで受けて逮捕された。この事件の裁判は、法曹関係者が全て白い防護服に身を包み、証拠物を調べる際には火箸のようなものでつまむなど、ハンセン病への偏見・差別に満ち満ちたものであったと言われている。被告人とされた F さんは、この裁判において無実を主張し続けたが、熊本地方裁判所ではない特別法廷にて、適正な弁護もなされないまま死刑が言い渡され、最高裁で死刑が確定した。F さんは死刑確定後も、無実を訴え再審請求を行ったが、1962 年 9 月 14 日に F さんは処刑された(無らい県運動研究会 2014:215)。 さんのご遺族が再審請求をしようにも、ハンセン病差別をおそれて再審請求が困難な状況にあり、有罪であることに数々の疑問が指摘されている F さんの冤罪被害回復も未だになされていない(岩下 2015:34)。 後者の竜田寮事件とは、菊池恵楓園に収容されたハンセン病患者の子ども達(「未感染児童」)などが生活する竜田寮において、黒髪小学校の分校という形で学んできた子ども達が、本校である黒髪小学校に通えるよう、菊池恵楓園の園長が許可申請をしたことが契機となって生じたものである。黒髪小学校校長は、同校 PTA の了承を条件としたところ、PTA 総会で説明することについては十分な約束がなされなかった。そこで、1953 年 12 月に菊池恵楓園の園長が熊本地方法務局に対して、黒髪小学校への竜田寮の子ども達の通学が認められないのは差別だと申告を行った。この竜田寮の子どもたちの黒髪小学校への通学をめぐっては、賛成派と反対派が、PTA、熊本市教育委員会、菊池恵楓園などをまきこんで激しく対立した。これが竜田寮事件のあらましである(無らい県運動研究会 2014:243)。 当時の「らい予防法」によれば、患者やその親族への、ハンセン病による差別は禁止されていた。しかし、黒髪小学校 PTA の多数を占める反対派は、ハンセン病患者の子ども達は、「要観察児童であり、いつ発病するかもしれぬ児童である」として、黒髪小学校に通学することに、法律の規定をも超えて激しく反対した。他方、賛成派も、「らい予防法」や当時の非科学的なハンセン病に関する知見を前提としており、子どもたちの通学への賛成を

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