熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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1953 年に成立した「らい予防法」には、「近き将来本法の改正を期する」との付帯決議が256)。結局、竜田寮の子ども達は黒髪小学校を卒業できなかった(畑谷 2006:210)。 (1)「らい予防法」の廃止1 月、厚生大臣は、患者団体の代表に、法の廃止が遅れたことを認めて公式に謝罪し、「ら(2)「らい予防法」違憲国賠訴訟2006:225)。 支えていたのは、ハンセン病患者やその家族への同情論であって、決して、日本国憲法に基づく差別の禁止を求める観点のものではなかったのである(無らい県運動研究会 2014: 4.「らい予防法」の廃止と違憲国賠訴訟 なされていたが、国会議員から「らい予防法」の廃止の動きが出ることはなかった。他方、ハンセン病患者の団体によるねばり強い運動などによって、全国のハンセン病療養施設に収容されている患者の待遇は少しずつ改善していった(大谷 1996:277)。しかし、待遇改善が実現していったことによって、「らい予防法」の改廃を求めると、待遇改善が止まってしまうことへの危惧から、「らい予防法」改廃を求めていた患者の運動に躊躇も生まれてしま ったのである(内田 2006:219)。 この間、国際的な動きは、1956 年にローマで開催された国際会議で、ハンセン病患者に対する差別待遇的な諸法律は撤廃されるべきことなどが決議されるなど、日本で全く改廃されない「らい予防法」との乖離がますます大きくなっていった。 この「らい予防法」が廃止される大きなきっかけを作った者は、厚生省においてハンセン病問題に関わった後に退職していた大谷藤郎と言える(内田 2006:224)。大谷は、1994 年 4 月に、「らい予防法」を廃止し、全国のハンセン病療養所で生活している者に、今まで通りの処遇を保障する新立法を行うことを骨子とする見解を、患者団体の会議において発表した。これを受けて、ハンセン病治療に関わってきた医学者の学会も「らい予防法」廃止を決議し、全国療養所所長連盟も「らい予防法」見直しを求める意見書を発表した。厚生省が設置した「らい予防法見直し検討会」も、「らい予防法」や、優生保護法におけるハンセン病患者に対する断種・堕胎手術等を正当化する条項の廃止等を提言した。1996 年い予防法」は 1996 年 3 月の「らい予防法の廃止に関する法律」の成立によって廃止されたのである。 「らい予防法」の廃止が遅れたことへの厚生大臣からの謝罪はなされ、「らい予防法」が廃止された後に、療養所を退所した者への一定の援助を国は約束したものの、退所者一人あたり 150 万円しか予算化されず、国の責任を清算するには程遠いものであった(内田

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