熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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そこで、「らい予防法」廃止を怠った国の責任を真正面から問う「らい予防法」違憲国賠訴訟が 1998 年に熊本地方裁判所などに提訴された。この訴訟において、国は、強制隔離には合理性があり、ハンセン病が治る病気になったのは 1980 年代以降で、ハンセン病療養所では、一時期を除く、強制収容・隔離はしておらず、断種・堕胎も同意の下になされたもので、1970 年代以降は、特に療養所の開放政策の下、患者たちの外出・外泊を自由にしており、仮に法的責任があるとしても、1978 年以前のものは除斥により免ぜられるなどと、全ての責任を否定する主張を行った(内田 2006:226)。 しかし、熊本地裁は 2001 年 5 月 11 日に、憲法違反である「らい予防法」を廃止しなか った国の責任を認め、原告全面勝訴の判決を言い渡した。そこでは、厚生大臣が 1960 年から 1996 年まで隔離政策の抜本的な変換を怠り、国会議員が 1965 年から 1996 年まで「らい予防法」の隔離規定を改廃しなかったという継続的な不作為のために 1996 年まで損害が継続したことが認定された。 このように立法府である国会の不作為まで認めた判決は稀有なものであったが、国は上訴をせず、熊本地裁判決は確定した。そして、2001 年 5 月 25 日、内閣総理大臣談話を通して、行政のトップである首相による謝罪がなされ、衆議院・参議院も謝罪決議を行ったのである。ここから、ハンセン病差別の克服に向けた、行政の取り組みが本格的に始められるようになったと言うべきであろう。 5.熊本地裁判決後も続く差別 しかし、2001 年の熊本地裁判決後も、ハンセン病に対する根深い差別を浮き彫りにさせる事件が起こった。2003 年 11 月に、熊本県の黒川温泉にあったホテルが、菊池恵楓園の入所者の宿泊拒否を熊本県に伝えたことから起こった、宿泊拒否事件がそれである。 この事件を通して明らかになった社会におけるハンセン病差別の根深さは、宿泊拒否したホテル側の形だけの「謝罪」を、入所者らが「反省がない」と突っぱね、自分たちがどれほど傷ついたかを訴えると、社会の反応ががらりと変わった点に端的に現れている。すなわち、当初は、宿泊拒否したホテルに対する大きな怒りであったものが、入所者らの主張を機に、菊池恵楓園入所者自治会を始め、熊本県などに対しても中傷の電話や手紙などが殺到したのである(内田 2006:488)。 このように、差別の被害を受けた者がその克服に向けて声を上げると、多くの者がそれを攻撃するという、「差別の二重構造」が生じていることが浮き彫りとなった。この攻撃は「差別意識のない差別・偏見」と言うこともできる。この「差別意識のない差別・偏見」は普段は「寝た子」状態にあることが多く、差別を受けた者が差別・偏見に甘んじる限りは「同情」の中に隠されているが、差別を受けた者が権利主体として立ち上がろうとすると、

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