熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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の戸建部はこの書物の中で、備荒樹芸之法と題し、棗、栗、柿、桑、油菜の植樹を勧め、それぞれの利用法や育成法を記しているほか、備荒貯蓄之法と題し、上記四木の成長年数やそこから得られる収入などを勘案し合理的な年貢の支払いと、今でいう地産外商による備蓄を説き、とくにそれを指導すべき肝入組頭などの責任を説いています。また、食草木葉法として様々な植物についての詳細な調理法、解毒法などを列挙しています。建部が解毒法を強調したのは、飢饉の時の死因のひとつに野草を食し毒にあたることが少なくなかっためで、これを防ぐには塩が有効であることを説いています。 建部は「民間備荒録」の続編として図解を中心とする「備荒草木圖」を1771(明和8)年に著しました。刊本として流布するのは没後の1833(天保4)年のことです。「備荒草木圖」には一頁に一種の図解と簡単な調理法などの解説を加えた104種の救荒植物が取り上げられています。 建部の「民間備荒録」以降、江戸後期にはさらにいくつかの救荒書が刊行されました。米沢藩では、重臣莅収録した「かてもの」が1802(享和2)年に上杉鷹山の命により刊行され、この書のおかげで30年後の天保の大飢饉でも米沢藩に餓死者は出なかったとされています。本稿末の表で、江戸期以降の主な救荒植物に関する書籍を調査したところイタドリは救荒植物の定番であること、しかし、どこにでも繁殖する野草ゆえ「農業全書」には収録されていないことなどが読みとれます。記述内容の比較から、時代的に新しい書物はそれより前に著されたものを参考にしていることがうかがえました。1903(明治36)年に白井光太郎博士が著した「救荒植物」は、それまでの救荒植物研究の歴史を総括し、かつ434種にわたり分類学的に配列記載している点で、集大成的なリストと見ることができます。 ところで救荒植物には重要な意味があります。それは、長年にわたる食経験が担保されているということです。救荒植物としてとりあげられているアキノノゲシは、じつはレタスの原種なのですが、今日野菜として流通しているレタスよりもはるかに体に良い活性物質を含んでいることが分かりました。 熊本県の植物学の源流を探る上で大きなきっかけとなるのは、肥後細川藩第六代藩主、細川重賢(1717~1784)の時代です。宝暦6年(1756)、重賢は日本5.蕃滋園から見る熊本県の植物・熊本の医学薬学の源流「蕃滋園」ぞき善政らが編纂し、80種の救荒植物の調理法などを

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