熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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初の医学校「再春館」、および薬園の「蕃滋園」を開設しました。両施設は、藩医などが中心となり教鞭をとり、藩内の医療を両輪となって支えました。植物に関しても本草学(植物を中心とした薬物学)が教えられたり、各地で採取された植物の薬性について指導がなされたりと、学生の指導に活かされていました。蕃滋園は1594坪の敷地内に829種類の植物が栽培されていて、この面積に対する栽培種の多さから、見本園として機能していたことを示しています。 時は流れ現在ではその遺構は残っていませんが、「薬園町」の地名に名残をとどめています。しかしながら、地元では蕃滋園の記憶は風化してしまっており、住民、最寄りの交番でも情報が共有なれていないのが現状です。ちなみに、薬園は蕃滋園のほかにも藩内6箇所に設置されていました。 明治維新に伴う廃藩置県により、蕃滋園は代々管理を行っていた藤井家の所有となりました。さらに、当主の没後、藤井家から103種類の樹木を熊本大学の前身である第五高等学校に寄付されました。当時の石碑、および譲り受けたと思われる樹木は、今でも五高記念館前で見ることができます。またこの時、一部の薬木は熊本大学薬学部の前身である「私立熊本薬学校」に寄付されました。テンダイウヤク、ニンジンボク、モクゲンジ、サンザシ、サンシュユがそれで、現在まで大学院生命科学研究部(薬)附属グローバル天然物科学研究センター・薬用植物園内で保存栽培を行っています。 滋園は薬草の栽培を行っただけでなく、藩の園芸趣味に関する植物を栽培する場として、熊本の園芸に大きく影響を与える施設でした。その中に現在「肥後の名花」とよばれ、世界に誇りうるほどの立派な園芸植物があります。肥後菊、肥後朝顔、肥後花菖蒲、肥後芍薬、肥後椿、肥後山茶花がそれで、「肥後六花」(図1)の名で知られています。 園芸植物が栽培される地方の風土や人間性によってある一つの方向への改良が進められ、特別な品種が作り出されることは一般によく知られています。熊本では武士の間で名花の多くが栽培されてきたので、必然的に武士の好む方向に改良が進められてきました。しかも、肥後人特有の気質(モッコス性)が発揮され、世間一般の好みに従わず‘わが道を行く’的改良が重ねられたので、ほかとは明らかな違いを生じ、その結果現在みられるような特異的なものが作り出されたと思われます。 ・熊本が世界に誇る名花「肥後六花」

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