護久 美昭永 #1 ガイダンス+細川斉護とその子どもたち 「『幕末』とはいつからか?」という問いに完璧に答えることはかなり難しいが、い わゆる「ペリー来航」が、当時の幕藩体制に大きな変化をもたらしたことについて異論を 唱える人はいないだろう。嘉永6年(1853)6月3日、ペリー艦隊が浦賀に姿を現した時 の熊本藩主は細川斉込まれていくのであるが、本講では彼とその5人の子どもたちの人生を追いながら、この 時代の特徴を浮き彫りにしていく。 細川斉護は、文化元年(1804)9月 16 日に、宇土藩主細川立之永田町の藩邸(現在の国立国会図書館がある場所)で生まれた(宇土藩は熊本藩の支藩 の一つ)。文政元年(1816)年、14 歳で宇土藩主となるが、文政9年(1826)、22 歳 で本藩主斉樹たのは 49 歳の時であったが、この時、熊本藩は幕府から江戸湾の要地である本牧浜市中区)警備の命を受け、これに迅速に対処している。この時点から、熊本藩の「幕 末維新」は始まると言っても過言ではない。彼は万延元年(1860)4月 17 日、江戸で 56 歳で亡くなるが、それは3月3日に起きた桜田門外の変の衝撃とその余波が、江戸 市中に渦巻いている最中であった。 このように一人の人物の来歴を詳細に調べてみると、そこには私たちの予想外のドラ マがあることが分かる。「歴史にifは禁物だ」と言われるが、もし細川斉樹に跡継ぎ がいれば、彼は宇土藩主としての人生を歩んでいたはずだし、そうであれば交際する人 物や決断しなければならない案件も大きく異なっていたはずである。また江戸城の周囲、 特に大手門・坂下門・桜田門側は諸大名の上屋敷が集中しており、熊本藩上屋敷もそこ にあったから(現在の東京駅前丸の内)、井伊直弼が襲撃されたという情報も、すぐに 病の床に伏している彼に伝えられたはずである。 歴史学には、歴史事象を俯瞰的に捉えようとする「鳥の眼」と、微細に捉えようとす る「虫の眼」との二つの視点が必要とされるが、教養科目としての本講では徹底して「虫 の眼」にこだわって、何よりも歴史学の楽しさを味わってもらうことを目的としたい。 斉護には男6人、女5人の計 11 人の子どもたちがおり、本講ではその中から5人を 取り上げていくが、彼ら/彼女らの人生にしても、政治方針をめぐる兄弟間の葛藤と悩み があったり(第 13 代藩主韶邦)、熊本からははるか離れた藩に養子に行く者があったり(最後の津軽藩主となった津 軽承)、幕府の顕職に就く人物に嫁ぐ者があったりと(政事総裁職となった福井藩主松 平慶に嫁いだ勇で、その時、彼は江戸にいた。熊本藩もここから時代の大波にのみ の養子となり、第 12 代熊本藩主となる。彼がペリー来航の報を受け取っ 、第 14 代藩主護)、そこにあるドラマは極めて複雑で多彩である。 幕末維新熊本人物列伝 の長男として、江戸 三澤 純 (横 なりたつよしつぐあきらよしながなりもりよしくにいさもりひさ、大参事として護久を補佐した護1 たつゆきほんもくもり
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