熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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臣 2 ・江藤新平・横井小 #2「維新十傑」としての横井小楠「維新十傑」とは、山脇之人が 1884(明治 17)年に刊行した『維新元勲十傑論』の 中で選定した、明治維新で特に大活躍した 10 人のことである。すなわち西郷隆盛・大 久保利通・小松帯刀楠・岩倉具視のことを指す。現在では、この中から山脇が、さらに厳選した「維新三傑」 (西郷・大久保・木戸)の方が有名だろう。 今、このラインナップを見てみると、薩摩藩3人、長州藩4人、肥前藩1人、その他 2人で、いわゆる「薩長土肥」の枠組みの中から土佐藩からのみ選ばれていないこと、 特に今日では圧倒的な人気を誇る坂本龍馬がいないことに気づく。ほかにも伊藤博文・ 山県有朋・井上馨・高杉晋作など、「トップ 10」の中に加えられても良さそうな人物は 数多い。本講の課題は、そうした中で、なぜ「薩長土肥」(このグルーピングがいつ、 どのような文脈で作られたのかも、歴史的に考える必要がある)の中にも入っていない 熊本(肥後)藩から横井小楠が選ばれているのかという疑問を、歴史的に追究すること である。 儒学者として活躍した横井小楠の思想の特徴を「鳥の眼」で捉えると、〈キリスト教 思想を媒介とせずに、現代の「公共」概念にたどり着いた世界で最初の人物〉となるだ ろう。それほど現代の歴史学界や哲学界における彼の評価は高いのである。しかし新入 生向けには、次のように説明して、彼の思想の優れた点を、具体的に理解してもらいた い、と考えている。 「ペリー来航」ショック後の日本社会が進むべき道は二つあった。一つは、長州藩出 身の吉田松陰論点は、第一に、たとえ不平等な内容を含んでいても、一度条約を結んだ以上は、日本 側から条約を破って、国際的な信用を失ってはならない、第二に、欧米列強に信用され るように努力している間に、国力を増進させ、不平等条約による国家的損失を、日本周 辺の「朝鮮・満州・志那」を植民地とすることで補えばいい、という二点である。これ に対し、横井の主な論点は、第一に、外国との交際に一番必要なものはお互いの立場を 思いやる「信義」であり、この「信義」を持っている国=「有道の国」とは付き合い、 「無道の国」との交際は拒絶すべきである、第二に、だから攘夷というスローガンに踊 らされ、単純に全ての外国を排除すべきではないし、日本そのものが弱い国を侵略する 「無道の国」になっては元の子もない、という二点である。 両者の主張とも、信用や信頼という概念を柱と組み立てられているが、その結論は大 きく異なっている。吉田は「力に対して、力で対抗する」道を示し、横井は「理想によ って力を超える」道を構想した。明治に入り、現実の日本が進んだ道が吉田の説いた道 であり、その終着点にはアジア・太平洋戦争の悲劇があった。一方、横井の説いた道は 長く「伏流水」となっていたが、アジア・太平洋戦争後、日本国憲法の理念に通底する 考え方として再び脚光を浴びることになった。#1の解説文で、「教養科目としての本 しょういん・大村益次郎・木戸孝允・前原一誠・広沢真が唱えた道であり、もう一つが横井小楠が唱えた道であった。吉田の主な しょうなんたてわきさねおみ

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