熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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講では徹底して『虫の眼』にこだわ」ると書いたが、本講では「鳥の眼」も取り入れて、 歴史を俯瞰する爽快さを味わって欲しい。 #3 吉田松陰が信頼し尊敬した宮部鼎蔵 幕末の熊本藩士のうち、横井小楠が全国的に有名であったことは#2で言及したが、 熊本にはもう一人、天下にその名をとどろかせた宮部鼎蔵化6年(1809)生まれ、宮部が文政3年(1820)生まれだから、二人には 11 歳もの年 の差があり、一方が儒学者、もう一方は藩校時習館で山鹿流兵法を教える師範(軍学者) であったから、いろいろな面が対照的である。 宮部の性格は、長州の吉田松陰が「其人懇篤は親切心に溢れ、かつ意思が強固で何事にも屈しない人だ)」と絶賛したことでよく知 られている。いわゆる「幕末志士」として、日本のために自分の身を犠牲にして力を尽 くそうとした二人はよく気があい、嘉永4年(1851)に一緒に東北地方を旅したり、安 政元年(1854)に吉田がペリー艦隊に乗り込んでアメリカに密航しようとした時には、 お互いの帯刀(大小二本の刀のこと)を交換して、その勇気を讃えたりしている。江戸 時代、刀は「武士の命」とされていたから、二人の信頼関係はそれほど深かったのであ る。 文久3年(1863)3月、幕府は全国の 10 万石以上の諸藩に、京都警備のための武士 (親兵)の差し出しを命じたが、この時の基準は持高1万石につき1人であったから、 熊本藩は 54 名を京都に送り出した。宮部はその一人であったが、京都で全国から集め られた 3000 人余の武士が一同に会した時、彼はその総監に任じられた。このことも、 彼の人徳と人気の高さを物語っている。しかし文久3年(1863)8月 18 日の政変で敗 退した時点から、彼の苦難の人生が始まっていく。苦境の日々の中で、彼は熊本に残し てきた妻と幼い二人の娘の将来を心配し、妻宛に手紙を書き送る。この手紙は講義中に 読み、解説していくが、残念ながら、この手紙を詳しく紹介した文献はない。私が執筆 した文章が『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994 年)の「宮部鼎蔵」の項に掲 載されているので、これを参照して欲しい。この手紙は、歴史上の人物が書いた手紙の 中で、私が最も感動する手紙の一つである。 宮部は元治元年(1864)に、池田屋事件において新撰組に襲撃されて自刃を遂げるが、 現在の熊本では全く「忘れ去られた存在」である宮部にスポットライトを当てることで、 教科書では決して味わうことができない幕末維新史の面白さに気づくことができるだ ろう。 という人物がいた。横井が文 と云うべき人なり(宮部鼎蔵 にして剛毅3 ていぞうこんとくごうき

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