熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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#4 藩を下から支えた惣庄屋たち 本講では、まず熊本藩の藩政の仕組みを説明し、その中でも現在では県や市町村が行 っている行政に該当する「民政」を取り上げていく。但し、江戸時代における「民政」 の位置付けやイメージは、私たちが現代の行政に対して持つイメージとは大きく異なっ ていることに注意すべきである。例えば、近世後期段階の熊本藩政府には、14 の部局が 置かれていたが、直接的に「民政」を管轄する部局は「町局」「郡局」の二つしか存在 しなかった。残りは、熊本城を管理する「城内局」や宗門人別を担当する「類族局」、 藩校時習館を運営する「学校方」等が占めていた(『藩史大事典』第7巻〔雄山閣出版、 1988 年〕参照)。これは、現在の熊本県庁にある8つの部が、全て県民サービスを主体 としていることとは極めて対照的である。そもそも熊本藩領に住む農民たちが納めた年 貢は、まず何よりも藩主一族の生活費や武士の俸禄として、その大部分が使用されたの であり、「民政」の具体的中身として、私たちがすぐに思い浮かべる道路や橋の建設費 等には回されなかった。 熊本藩の民政は、藩領内を 51 に区分した手永(てなが)を舞台として実施されたが、 その責任者が惣庄屋であった。現在、熊本県内には 45 市町村があるから、江戸時代の 手永は、少なくとも面積的には現代の市町村だと思えば分かりやすい。「面積的には」 と限定したのは、憲法で地方自治が保証されている現代と、近代的な憲法もなく、まして や地方自治の概念も存在しない江戸時代とは、行政の政治的位置付け大きく異なってい るからである。 しかしそのやり方、進め方は、現代社会に生きる私たちにも学ぶべき点が多い。その 点に注目して、近年、熊本大学文学部日本史学研究室では、手永制や惣庄屋についての 再検討を行う共同研究を推進しており、その成果を日本の歴史学界に向けて、積極的に 発信中である。本講では、その成果の一部を、惣庄屋の人物像を中心に取り扱っていく。 宝暦期(1751~64)に整備された熊本藩の手永制は、その後、徐々に自立性を高めて いき、全国的に見ても、極めて高いレベルに到達していた。手永には独自の財源が割り 当てられ、惣庄屋たちは合議を重ね、自前の資金を持ち寄って、長い流路の用水路を作 ったり、広大な新田を開発したりしたほか、道や橋、港などを作るインフラ整備をどん どん進めていった。これまでの近世史のイメージでは、このような事業は武士が計画・ 立案し、農民たちを動員して進められたと考えられがちであったが、新しく見えてきた 実態はその逆であったのである。そのような近世期の「民政」の実態に学びながら、私 たちが主権者として、国政や地方自治に積極的に関わることは、現代社会にとって大切 なことであろう。 4

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