#5 横井小楠の弟子としての二つの生き方――安場保和と山田武甫―― #2で紹介した横井小楠には数多くの弟子たちがいた。弟子たちは、熊本藩だけに止 まらず、柳川藩・福井藩にも存在していた。特に熊本の弟子たちは、「熊城乗り、固く結束しあっていたが、明治2年(1869)1月に、横井が京都で暗殺されてし まうと、師の教えの理解の相違から、それぞれ別々の道を進む者も現れてくる。安場と山田側に立ち、主に地方長官(福島県令・愛知県令や福岡県知事等を歴任)を務め、最終的 には貴族院議員になったのに対し、山田は、当初は安場と同じく地方長官(敦賀県令) を務めていたが、その後、政府批判を強め、自由民権運動に参加し、第一回衆議院議員 選挙で当選して以来、民党のリーダーとして活躍した。そして双方ともに、師である横 井への尊敬心を失わず、自分こそ師の教えを忠実に守っていると考え、お互いに相手を 批判しあっていた。 二人の生き方の違いは、近世の国家と社会においては卓越していた横井の思想が、近 代に入ってどのように変化を遂げるのかという、極めて興味深い問題を解く際のヒント を提供していると思う。横井は、本格的な近代社会を経験する前に亡くなってしまった から、その後の変化は、熱心な弟子たちの生き方をたどるしかないからである。 長い間、横井思想の正当な継承者は、山田たち自由民権運動に参加した人たちだと考 えられてきた。しかし近年、私は横井思想が、近代社会の中で「化学反応」を起こせ ば、安場ら政府官僚となって、明治政府を支えていく人たちを作り出すのではないかと いう仮説を立てている。現代においても一部のスポーツや習い事の世界では「師匠と弟 子」という人間関係が見られるが、江戸時代にはこの関係性が現在よりも格段に重要視 されていたことを理解して欲しい。 #6 輝きを競い合う矢島四姉妹 矢島四姉妹とは、#5で紹介した惣庄屋を務めた矢島忠左衛門とその妻・鶴子との間 に生まれ、それぞれの道で活躍した竹崎順子(1825~1905)・徳富久子(1829~1919)・ 横井つせ子(1831~1894)・矢島楫子#2で登場した横井小楠を中心とした広範な人間関係の中で結節点としての役割を果 たしている。順子は横井の高弟・竹崎律次郎に嫁し、久子も横井の最初の弟子・徳富一に嫁し、つせ子は横井本人に嫁したからである。 4人それぞれの人生は講義で取り上げることにして、ここでは4人の中で最も自由闊 達な生き方をした楫子を紹介しよう。彼女の人生は江戸時代から明治・大正期にまたが っているため、「幕末維新期」からはみ出してしまうが、その力強い生き方には、現代 を生きる私たちも驚かされてしまう。 彼女は明治元年(1868)に離婚した後、明治5年(1872)に意を決して上京し、小学 校教員として必死に働いた。この頃からキリスト教に興味を持ち、明治 12 年(1879) とは、その別々の道を代表する人物であるが、安場が一貫して明治政府の (1834~1925)の四人のことである。この4人は、 5 社中」と名 保 和武甫 敬 かずやまだたけとしたかかじこゆうじょうやすばやすかず
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