熊本大学の教養教育 肥後熊本学
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だ田 に洗礼を受けている。明治 19 年(1886)に東京婦人矯風会を創立し、会長となって、 社会事業家としての人生を歩み出す。この会はキリスト教精神に基づいて、日本におい て禁酒・廃娼・一夫一婦制を実現する活動を行い、明治 27 年(1894)には日本基督婦人矯風会に発展している。明治 22 年(1889)には女子学院を創立し、大正3年(1914) まで学院長を務めた。彼女はここで校則を作らず、女性も一人の人間として生きていくべ きだという理想教育を追求した。その後、彼女は大正 10 年(1921)に開かれたワシント ン会議に出席し、国際的な平和と女性解放とを求める日本女性1万人の署名を、ハーディ ング米大統領に手渡す大役を果たしている。こうした彼女の活動は世界でも高く評価さ れ、世界矯風会は彼女の誕生日をジャパン=デイと定めたほどであった。現在も東京都 千代田区一番町にある女子学院高等学校のHPを見ると、学校沿革のコーナーで、93 歳 で亡くなるまで一途に女性の地位向上を目指した矢島楫子のことを誇らしげに紹介して いる。 #7 明治国家のプランナー井上毅 この「幕末維新熊本人物列伝」に登場する人物のうち、高校の日本史教科書に登場す るのは、横井小楠と矢島楫子、そして本講で取り上げる井上毅の事項を何種類の教科書が載せているかを示した、いわゆる頻度数で比較すると、井上 が他の二人を押さえて圧勝していることが分かる。なぜか?それは、彼が大日本帝国憲 法と教育勅語との起草者であるからである。しかし彼が企画立案した法律・制度はこれ 以外にもたくさん存在する。井上が、「明治国家のプランナー」と称される所以である。 井上は、天保 14 年(1843)に、熊本藩家老米して米田家の下屋敷(現在の熊本市立必由館高校がある場所)で生まれ、その後、同じ く米田家家臣の井上茂三郎の養子となっている。嘉永5年(1852)に米田家の家塾必由 堂(下屋敷の中に設立)に入塾するが、その頃から成績優秀で、文久2年(1862)から 藩校時習館の居る。この頃、井上はたまたま熊本に帰ってきていた横井小楠に論戦を挑みに、沼山津在の熊本市東区)にあった四時軒を訪ねている。井上は 21 歳、横井は 55 歳、親子ほど年齢の差がある、二人の火花を散らすような問答の内容を、井上は「沼山対話」(先に触れた 「沼山津」という地名にちなむ)と題した記録に残している。言ってみれば生意気な青年 の不躾な質問に、横井は余裕をもって、しかし時には苦戦しながら答えているが、俊秀ど うしの会話とはこういうものかと、その場の緊迫した雰囲気を感じ取ることができる記録 である。大学に入学したばかりの君たちが、教授に質問に行く場面を想像してみるとい いだろう。 慶応3年(1867)に藩の命令で、フランス学を学ぶために横浜・江戸に向かった時点 から、井上の人生は大きく展開し始める。明治5年(1872)に、念願のフランス留学を実 現し、翌年に帰国すると司法省(現在の法務省)の役人となった。明治7年(1874)に 家の家臣である飯田権五兵衛の子と 6 の3人だけであるが、そ 教 (現 きょりょうせい寮生(現代で言えば大学院生、しかも給料がもらえる!)に選抜されてい こめこわしキリストぬやまづ

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