図2:「居る」を表す方言の全国分布(東西対立型)図3:『萬葉集』(九州大学附属図書館蔵)20 また、九州をはじめ、西日本方言では広く、ヒトが“存在する”ことを表すときには、「おる」を使います。(4)竹取の翁という人がおった。 時間的な変化に加え、空間的な変異も視野に入れると、“存在”表現は「ある」「いる」に加え、「おる」も仲間に入ってきます。なぜこうした歴史的変化が見られ、なぜこうした地理的変異が見られるのでしょうか。 こうして我々は、“いつ、どのように”という疑問からさらに進んで、“なぜ”という疑問へと進みます。さらに、(1)と(2)の相違をめぐる“なぜ”は尽きません。「ありけり」は「あった」と訳されるように、「けり」は“過去”を表します。しかし、古典語において“過去”を表す語としては、「き」があったことも我々は知っています。また、“過去”とは異なる“完了”を表す「つ」「ぬ」があることも知っています。しかしながら、これらは現代語訳ではすべて「た」です。この相違は何を示すのでしょうか。歴史的変化だとすれば、「き」「けり」「つ」「ぬ」はすべて「た」に取って代わったことになるのでしょうか。では、いつ、どのように、そしてなぜ、そのような変化が起こったのでしょうか。 またさらに、「…という者がいた」のように、(2)には主語を表す「が」がありますが、(1)にはこうした「が」がありません。これは偶然書き忘れたのでしょうか、それとも古典語には主語を示す助詞がなかったのでしょうか、主語の「が」は新しくできたのでしょうか。だとすれば、それは、いつ、どのようにして、なぜ?― このように、ことばの歴史をめぐる“なぜ”は尽きません。重要なことは、いま使っている現代語、共通語にしても方言にしても、歴史の中の1コマであり、常にその変化の最中にあるという点です。ことばが新しく生まれ、広く通用し、またあるものは使われなくなっていく。こうした歴史的展開の中でことばを理解することこそが、ことばの仕組みを知ることだと私は思います。 そして、このように、ことばを自在に使ってコミュニケーションを図ることができるのは、人間のみです。ことばの歴史を説明することは、人間の営みの歴史を説明することに他なりません。国語学講座では、我々にとって最も身近な、日本語を対象として研究しています。「ことば」を通じて、人間の本質とその営為を、共に探求していきましょう!
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