平凡と思われた道草にさえ『身を重ねてみる』ことは可能だ21人間科学コースHuman Science Course かつてゲーテは「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」と書いたことがあった。外国語を知って初めて、自分自身の言語についても自覚できるようになる。逆に言えば、外国語を知るまで、それ以外の言語は知らないのだから、自分が他にもあり得た言語の1つを話しているのだと自覚することもない、ということであろう。これは言語だけのことではなく、人生そのものにも当てはまるだろう。「他の人生を知らない者は自分自身の人生について何も知らない」。比較宗教学はこの「他の人生」を学ぶ場である。 研究室では時たま、中庭に出て「ブラインド・ウォーク(Blind Walk)」というレッスンを行うことがある。眼を瞑り、中庭を歩いてみるのである。このレッスンをやる前、多くの学生たちは、眼を瞑ってしまえば、何も見えず、動けなくなるに違いないと思って驚く。けれども、眼を瞑ると分かる。どちらの方向が明るいのかは知ることが可能なのだ。中庭からは木々の葉がこすれる音がする。そちらの方向に一歩踏み出せば、頬には風が当たり、どちらが外なのかも分かる。季節が季節なら、花の香りがしてくるかもしれない。こうして私たちは知るのである。ブラインドになって、現われてくる世界もあるのだということを。眼を瞑っても、世界が失われる訳でもなく、様々な光の風景、音の風景、風の風景、香りの風景があり、私たちはそうした世界を生きることも可能であったということを。そうして私たちは、目を瞑る前の自分が一つの思い込みの世界に住んでいたこと、別様の世界に住むことも可能であること、「自分自身の人生」はその可能性の一つの世界でしかなかったことを知るのである。 だから私たちの研究室では、様々な当事者に「身を重ねてみる」。異なった時代の、別の世界に生きた人間たちの書物を読み、異なった境遇に生きる人たちの暮らす現場に出かけ、そこに住む人たちに「身を重ねてみる」のである。するとその人生は二倍にふくらむ。向こう側の世界と、こちら側の世界を知り、その行き来ができるようになる。少し前まで、自分自身もそうしていた、「思い込み」の世界に住んでいた人々に、もう一つの世界のあり方も可能であることを伝えることができる。「宗教」というのはそうした「もう一つの世界のあり方」の1つでしかない。けれどもそこには、長年、多くの人々が苦悩から解放された知恵が累積している「もう一つの世界のあり方」があるのである。では身を重ねることでどこまで接近できるのだろうか。と考え始めたあなたは、もう一歩を踏み出したのである。身を重ねてみる飯嶋 秀治 (比較宗教学)はじめの一歩いま、目の前に生きている人を研究するのが人間科学コースの特徴になる。これまで「同じ人間」と見ていた人が、実は全く異なる世界の認識をしているかもしれない。これまで「まるで違う」と思っていた人が、実は自分とそっくりな世界を生きているかもしれない。今自分が生きているこの世界で、よりよく生き直すには、そのアプローチ(接近法)を学んでゆくことからはじめよう。
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