The Shimonoseki City University Public Relations No.842018.3.16思い出すこと 年末から早々と撤収準備に取り掛かっている。引き出しを整理していると、手紙などに混じって雑然と折り重なった写真がたくさん出てきた。33年に及ぶ市大での個人史の証しであるが、ほとんどが着任して15年くらいまでのフィルム写真だ。そこに写っているのは、今の私の風貌からすれば別人のそれであるが、同僚の教員や職員の方々も似たようなもの。すでに鬼籍入りされた方も何人かおられる。宴会の写真が一番多い。ほかに、テニス、卓球、トリムバレーなど教職員で行ったスポーツ大会での一齣など、どれも懐かしいものばかりだ。この頃の市大を一番楽しんだのは間違いなくこの私だろう。 獣医師の熊谷先生(大作を3点大学に寄贈していただいた)から美術部の顧問を引き継ぐことになり、部展の折に何度か自作を出品したことがある。また最初は中山学生部長との共同作業であったが、幻の第二グラウンドや新学部棟を含めてキャンパス再開発の図面もどきを数えきれないほど書いた。本館の建設にも図面書きの初期段階でかかわったが、この完成と学科の新設によって、他大学と競い合う上でようやく同じラインに立てた、なんとか間に合った、と安堵したことを覚えている。教員3名が中心となってタブロイド判の『市大広報』を創刊して編集に励んだことも懐かしい。6年間で12号、そのうち11回編集長を務めた。いずれも移り気な若い頃に志した道だったから、楽しい思い出となっている。 省みて、知的探求の成果をいつでも形にして世に問うことができるという恵まれた環境をどれほど生かすことができたか、心許ないかぎりである。セカンドライフは、古典の翻訳を続けながらも、初心に帰って絵を見たり描いたりして過ごそうなどと考えていたが、しばらくはこの道を続けることにした。 この大学に職を得ていなければどうなっていたか。そのことを思うにつけ、感謝の気持が湧きおこる。本当です。皆さん、いろいろありがとう。退任挨拶特任教員中野 琴代下関市立大学での22年間を振り返って(日本語学専門)退任の言葉教授 教授米田 昇平相原 信彦 中学時代の担任が英語の教師であり、その影響もあって教育学部の英語教員養成課程に進学しました。どこで「間違った」のか、大学院では英文学を選択し、しかもそれまであまり縁のなかったシェイクスピアを専攻しました。確かに学部の卒論ではシェイクスピアの『オセロ』研究をするにはしましたが、まさかこの私は大学の教員になるとは夢にも思っていませんでした。 1983年にこの大学に就職しましたが、私の中で一つの物差しがありました。それは学生を愛せなくなったら教員の職を辞するというものです。授業中にあまりにも学生の勉強に対する姿勢のいい加減さに腹を立て、ほぼ半年間休講にするというめちゃくちゃなことをしたこともありましたが、幸いにも学生を嫌いになることはありませんでした。ただ、こんな我儘なわたしが定年までこの大学で勤めることが出来たのは、学生に対する気持ちが変わらなかったことが一番の理由ではありますが、それ以外に同僚に助けられたことも大きな要因だったと今は思っています。 すでに退官された先輩に研究室に呼ばれ、私の怠惰な生活を叱責されたこともありましたが、私のとは違う物差しを持っている同僚の存在は大きなものでした。メモリが一つとは思われないN先生の物差し。真面目で、大きな優しさを併せ持つS先生の物差し。感激屋で涙もろく情熱的なY先生の物差し。中でも、学内業務だけではなく、研究にも授業にも全力で向い、傍でみていると倒れるのではないかと心配してしまうほどひたむきなK先生の物差しは、私には決して手に入れることが出来ないものでしたが、一番影響を受けましたし、K先生の同僚でいられたことは私の誇りです。 こうした素晴らしい教員と接することができる学生は幸せだと思っています。なるほど不本意な形でこの大学に入ってきた学生も多いのかもしれませんが、少しだけ気を付けてみて下さい。そうすれば自分が自慢できる大学に籍をおいていることを知り、幸せな気分になれますよ。 1995年4月下関市立大学に赴任、22年間、留学生への日本語教育に携わった。 市大は、現在、学部生と短期留学生あわせ、中国、韓国、ドイツ、台湾、トルコ、タイの7カ国・地域から受け入れている。この間、学生の意識と行動も変化した。 学部生は東アジア出身が大半を占め(これは今も同じ)、私の赴任時の経済事情では、日本での留学費用を親族に頼ることは難しく、アルバイトが必須であった。学部生は4年間勉学しながらアルバイトをし、奨学金を受給するには優秀な成績を獲得せねばならず、留学には強い意志と努力そして忍耐力が必要だった。当時、留学生を支援したい日本人の学生有志と教員の働きかけによってチューター制度が作られていたが、留学生は勉学とアルバイトの両立で忙しく、日本人チューターからは会って話をすることもままならないという愚痴が聞かれるほどであった。現在は経済差も縮まり、アルバイトせずに勉学に専念できる学生が増え、年齢も下がり、社会に出る前の一段階として日本での大学生活を享受する意識が強いようで、それはとても幸福なことだと思う。もちろん現在は現在の苦労があるだろうが。 日本人学生も変わった。留学生と関わる学生は、かつては留学支援というボランティア性が強かったが、現在は同じ若者として互いに交流を楽しむ意識が強いようだ。しかし、日本社会という枠から外へ、未知の分野開拓という意識は若干薄れているように思われるのは少し残念。 最後に日本語という言語について。日本語は特別な言語と見る人が多いようだが、言語はそれぞれ特性があって、日本語だけが特別ではない。多種の文字(漢字、ひらがな、かたかな、アルファベット、絵文字等)や敬語の使用等はあるが、それは日本語の個性である。一方で、若者の自由発想や表現が、規範にとらわれすぎて、「皆と同じ」が安全、安心、それで満足とするのは惜しい。自分の個性、独創性は自分の心の箱の中にしまっていても必要なときに発揮できるようにしてほしいと願う。
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