東北大学広報誌 まなびの杜 No.81
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高梨 弘毅(たかなしこうき)1958年生まれ現職/東北大学金属材料研究所   所長・教授専門/磁性材料、スピントロニクス関連ホームページ/http://magmatelab.imr.tohoku.ac.jp/Framesetjpn.htmlまなびの杜 81号|05鉄の神様 本多光太郎(一八七〇〜一九五四)は、我が国における金属学・磁気学の創始者であり、「鉄の神様」あるいは「鉄鋼の父」と呼ばれています。東北大学金属材料研究所(金研)の初代所長であり、金研の前身である臨時理化学研究所第二部が創設された一九一六年に、KS磁石鋼と呼ばれる当時世界で最も強い磁石を発明しました。その後も数々の実用的な金属材料を開発し、同時に優れた多くの科学者・技術者を世に輩出。日本の科学技術の発展に大きな足跡を残し、一九三七年には第一回文化勲章を受章しました。 また、東北大学第六代総長として、大学の発展にも貢献しました。金研本多記念館(一九四一年建設)の前にある本多の銅像には「金属の密林の大いなる開拓者」という文字が刻まれています。死ぬ暇がない 本多は無類の研究好き、実験好きとして知られ、日曜日はもちろんのこと、大晦日でも元日でも気が向けば研究室に行って、実験をしていたと伝えられています。弟子の一人に、先生は実験に疲れたら何をするのかと聞かれ、そのときは論文を読むと答え、では論文を読むのに疲れたらと聞かれると、そのときはまた実験をすると答えたそうです。服装などの身の回りのことにはきわめて無頓着で、議論に熱中すると頭をぼりぼりとかいて、フケが雪のように降ってきても、話は止まることがなかったといいます。 また、ドイツに留学していた頃、まったく消息が取れなくなり、本多は死んでしまったのではないかという噂が流れたことがあったそうです。心配になった友人の一人がわざわざゲッチンゲンの下宿を訪ねていくと、下宿の女主人が「ホンダは実験が忙しくて死ぬ暇などなさそうだ」と答えたという話が残っています。 極めつけは結婚式の逸話で、披露宴で親族一同、媒酌人、花嫁すべて揃って待っているのに、花婿の本多が来ない。皆で四方八方探したところ、結婚式を忘れてしまったのか、本多は研究室で実験をしていたとのことです。一方で、晩年は宝塚少女歌劇を好み、お孫さんを連れてよく行かれたという微笑ましい話も残っています。金研方式 本多の徹底した実証主義は、後に「金研方式」とも呼ばれるようになります。約三〇年前、私が金研に来て間もない頃、データ点の間を線で結ぶ必要がないくらいデータ点を敷き詰めて、それが自然に線になるくらい実験をする、これが金研方式だと教わりました。 理論予測がかなり可能になった現代において、大変な労力を必要とするこの金研方式には批判もあります。しかし、いつになっても、緻密な実験をしなければわからないことがあります。材料分野で日本が強いといわれる一つの所以は、まさにこの金研方式にあると思います。実学尊重 本多は、「今が大切」「つとめてやむな」など、多くの箴言を残しています。その中に「産業は学問の道場なり」という言葉があります。本多は、学問というものは決して学問のための学問ではなく、産業化されてこそ価値があるという思想の持ち主でした。 自身が開発した技術の産業化にも熱心に取り組み、多くの会社の設立にも尽力しました。今で言えばベンチャー企業ですね。東北大学には実学尊重というユニークな精神がありますが、その伝統は本多が作ったといっても過言ではないでしょう。本多 光太郎1922年12月、アインシュタインは東北大学を訪問。左から、本多光太郎、アインシュタイン、愛知敬一、日下部四郎太。このとき本多はアインシュタインにKS磁石鋼を贈った。3東北大学をつくった人々東北大学創立110周年記念企画KS 磁石鋼(奥)。本多光太郎が1916年に発明した当時世界最高の磁石。研究費を寄附した住友吉左右衛門にちなんで命名された。手前は1933年に発明された、さらに強力な新KS磁石鋼。本多記念館前に立つ本多光太郎の銅像。東北大学金属材料研究所本多記念館に当時のまま残されている本多光太郎の執務室(見学可)。

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