沿革本郷地区キャンパスの歴史駒場地区キャンパスの歴史柏地区キャンパスの歴史駒場祭 1959(昭和34)年赤門前に整列した馬術部 1926(大正15)年柏キャンパス移転記念一般公開 2000(平成12)年 江戸時代、本郷キャンパスはほとんどが加賀藩の江戸屋敷地であり、病院のある敷地は富山藩と大聖寺藩、弥生キャンパスと浅野キャンパスの大部分は水戸藩でした。現在の構内にも多くの史跡が残されていますが、赤門(正式名称:旧加賀屋敷御守殿門)や三四郎池(正式名称:育徳園心字池)はよく知られており、名所にもなっています。 東京大学医学部の前身である東京医学校が、本郷へ移転してきたのは1876(明治9)年。その後、法学部・文学部・理学部・工学部も相次いで移転し、次第に本郷キャンパスが大学の中核として発展、充実していきました。 しかし、明治期に建てられた校舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって大部分が崩壊してしまいます。そこで、翌年から内田祥三(工学部教授、後の14代総長)を中心に復興計画が進められました。ウチダゴシックとも呼ばれる統一されたデザインの建築群が次々に登場し、昭和10年代には新規に取得した弥生・浅野キャンパスを加えて、現在の本郷地区キャンパスが形成されます。 こうしてつくりあげられた特徴的な光景は、戦争での被害も少なかったため、現在にも受け継がれ、最新の校舎と調和しつつ東京大学の顔となっています。 古くは駒場野と呼ばれた駒場地区キャンパス一帯は、徳川8代将軍吉宗のころ(18世紀初め)から、将軍家の御狩場になっていました。薬草園もその一部にあったようです。この御狩場の広さは50haもあり、現在の駒場公園や先端科学技術研究センターなどの敷地も含まれていました。敷地内には湧水もあり、ささやかながらかつての武蔵野に思いを馳せることができます。 明治に入って、1882(明治15)年、この地に東京大学農学部の前身である駒場農学校が開かれました。これは、その後東京帝国大学農学部と改組されました。 この農学部時代の建物は、一部第2次大戦時に焼失し、その他はその後取り壊されて現在は残っていませんが、いま駒場キャンパスがゆたかな緑に包まれ、珍しい樹木が数多く見られるのは、こうした歴史によるものです。 1935(昭和10)年、本郷キャンパスの隣地、現在の農学部の敷地にあった第一高等学校と、当時の東京帝国大学とのあいだで敷地交換の話がまとまり、双方の移転が行われました。 戦後、第一高等学校が東京大学に継承されたのに伴い、このキャンパスが本学の敷地となり、教養学部等が設置されました。 江戸時代の柏地区キャンパス一帯には、幕府の軍馬育成機関、小金牧が広がっていました。ここには多くの野生馬が生息し、鹿狩りの舞台ともなる自然あふれる地域でした。明治維新後に、窮民対策のため開墾が開始されますが、水利のよくない土地柄で困難が多かったようです。昭和初期には、日本陸軍によって柏飛行場が建設され、首都東京の防衛に重要な役割を果たしました。終戦後、一時は引揚者入植地となりますが、朝鮮戦争勃発後に米軍に接収され通信所が設置されます。そして1979(昭和54)年に返還されると、跡地利用の一環として、東京大学の第三の核となる柏キャンパスがつくられました。 1990年代、東京大学は21世紀にむけた学問とキャンパスの再編を検討し、「三極構造」を提唱します。伝統的な学問の核をなす本郷と、学際的教育・研究を推進する駒場を既存の二極とし、「学融合による新しい学問領域の創造」をめざす拠点(第三極)として柏キャンパスを位置づけました。これにもとづき、1995(平成7)年に、通信所跡地の一部をキャンパス用地として取得、翌1996年に起工式を行いました。2000年の物性研究所、宇宙線研究所の移転・開所を皮切りに、現在も未来を切り拓く研究・教育の場として、機構・施設の拡充が続いています。THE UNIVERSITY OF TOKYO 202607
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